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カテゴリ:政治
もとマルクスボーイ (古いなあ) としては、心情的に左派を応援したい気持ちはある。しかし、「護憲派」 の現状を見ると、いささか、それじゃだめだよと言わざるを得ないところがある。今日は、ちょっとばかり勇気を出して、その辺を書いてみることにする。 「オオカミが来るぞ!」 式の護憲運動は、戦争と軍国主義の記憶が生々しかった50年代にはたしかに有効だった。しかし、現代ではもはや有効ではない。それは、「高度経済成長」 を経た日本社会の根本的変化と国際社会の変化を、あまりに考慮していないからだ。 たとえ、そのような 「軍国主義の復活」 をもくろむ、悪しきやからがどこかにいたところで、それは現実的に不可能なことだ。現代の日本は、もはやミャンマーのような軍事独裁政権が成立しうるような社会でもなければ、そのような政権によって統治しうるような単純な社会でもない。国際関係への影響を考えてみても、時代錯誤なトンデモ右翼ならばともかく、まともな責任ある政治家が、そのような妄想を抱いているはずはない。 そのことは、たとえば、皇太子夫妻や秋篠宮夫妻に対する、世間一般の振舞いを見ても明らかだろう。畏れ多くも皇太子夫妻の娘に対して、身分卑しき一般の人間が 「愛子さまあー」 などと軽々しく声をかけ、そのへんの芸能人に対するのと同様に手を振って、バチバチと写真を撮る。 そういった行動は、戦前ならばとうてい考えられなかったことだ。戦前ならば、皇族が目の前を通るときは、一般国民は道端にはいつくばって迎えなければならなかったのだ。このこと1つを取ってみても、戦前と同様の 「天皇制国家」 の復活などありえないことは明らかだろう。 たしかに、前内閣当時の自民党内部での 「憲法論議」 では、かの森元首相ですら苦言を呈するほどの、時代錯誤なトンデモぶりを発揮している連中がいた。しかし、そのような時代錯誤な 「改憲論」 など、とうてい今の国民に受け入れられるはずはない。いや、その前に、国会で三分の二以上の賛成を得られるはずもない。 高い国民的人気のもと、「美しい国づくり」 なるスローガンを掲げてスタートした安倍内閣は、「教育基本法」 の改正など、たしかに一定の 「成果」 をあげはした。しかし、彼のあまりにも哀れな政治的末路は、彼の 「戦後レジームの見直し」 という妄想に対する、国民の圧倒的な反対票の表れとして見ることもできるだろう。 政治的なリアリズムに欠けたそのようなナイーブさは、どちらかというと、戦後左派の宿痾のようなものだった。そのような例は、50年代のスターリン崇拝や、60年代の文化大革命の礼賛、「社会主義」 諸国に対する幻想と実情への無知など、枚挙にいとまがないくらいだ。 それに対して、アメリカによる占領からの独立回復をなしとげた吉田茂を、その源流の1つとする戦後の保守勢力とは、良くも悪くも、計算高い政治的リアリズムをこそ信条としていたはずだ。 しかし、わずか1年で退陣した安倍内閣とそのお友だち議員らの言動を見ると、このような生活者としての国民一般の意識から乖離し、リアルさを欠落させた 「ナイーブ」 という病は、いまや政界全体に無視できない程度に浸透しつつあるようにすら見える。 今、最も憂えるべきは、そのようなこの国の政治と政治家の全般的な劣化状況ではないだろうか。その主要な原因が、与野党を問わず、常態化しつつある議員の 「世襲制」 と、選挙の 「人気投票」 化にあることは言うまでもない。近く行われる大阪府知事選への橋下弁護士の出馬などは、その最たるものである。 政治的左派に関して言えば、ただただ過去の亡霊や反動の影にのみ怯える、後ろ向きの姿勢と、ススキが夜風に揺れるのを見ても幽霊と思い込むようなナイーブさから脱却しない限り、その再生はきわめて困難だろう。 とりわけ、9条を守ろうという熱意のあまりに、今の条文にちょっとでも手が加えられたら大変なことになるぞ!とでもいうような、一部に見られるいささか極端で、相も変らぬ運動や宣伝のやり方は、護憲運動自身と今後の平和運動にとっても、けっしていい結果はもたらさないと言わざるを得ない。
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