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カテゴリ:国際
現代の世界では、南極を除いて大洋に浮かぶ孤島や地の果てのような地域まで含めて、すべての土地はどこかの国に属している。近代以前の国家の領土が、そのときどきの勢力に合わせて、ゴムのように伸び縮みする融通無碍なものであり、その国境が輪郭線のない印象派の絵のように曖昧なものだったのに対して、近代の国家は明確でしかもできるかぎり固定された国境線を求める。 中国による 「解放」 前のチベットの社会がきわめて後進的であったのは事実だろう。しかし、いま独立を求めている人々らが、いまさらそのような政教一致体制の復活を意図しているわけでもあるまい。軍隊を動員した武力による弾圧はますます相互の不信を生み、敵対関係を強化して問題をこじれさせるばかりである。そもそも自由に意志を表明することすら許されていないのでは、問題の解決など不可能というものだ。 現在の中国政府は、蔓延する地方の党幹部や官僚の腐敗に強い危機感を持っており、汚職摘発に力を注いでいるようだ。しかし、そのような腐敗は、そもそも単一の党が権力を独占しているからこそ起きるのではないか。「絶対的な権力は絶対的に腐敗する」 という言葉もあるが、すでに革命の理念も理想もとうに失われた今の時代に、住民に対して絶対的な権力を行使する地方幹部らに対して、清廉であることを求め、権力がもたらす誘惑に負けないように要求するのは、どだい無理な話というものだ。 党に対する民衆の信頼が揺らぎ、党の権威が失墜しつつある中で、なおも権力の独占を続けようとするならば、そのような支配は必然的に暴力的な方法への依存を強めざるを得なくなる。そのような統治は、いわばいつ火を噴くかもしれぬ噴火口の上に座っているようなものであり、党による支配は、最終的に軍事的専制の単なる薄皮に過ぎぬようなものに変質するか、でなければ、なんらかのきっかけによって、党に代わり軍そのものが直接政治の前面に登場してくるという怖れすらある。 Youtubeでは、徒手空拳で黙々とヒマラヤの峠を越えようとするチベット僧侶が中国の国境警備兵によって次々と射殺される映像*や、軍によるチベット人への弾圧のようすが公開されている。植民地支配や少数民族への弾圧で 「残忍となること」 を学んだ軍隊は、いずれ自国民や自民族に対しても牙を剥くようになるものだ。 たとえば、ワイマール共和国時代に、数多くの暗殺行為を行うなど、暴力をほしいままにし、やがてナチスによる支配への道を開いたフライコール (義勇軍) や、アルジェリアの独立を認めたドゴールに叛旗を翻して、フランス国内でテロ活動を行い、ドゴール暗殺を企てた植民地出身の軍人らもそうであった。広大な中国の地方農村や辺境でいったいなにが起きているのか、そのことを知らないのは、いまやかんじんの中国国民だけなのではないだろうか。
中国共産党がこれまで軍に対して絶対的な権威を行使してきたのは、毛沢東は別格として、周恩来やトウ小平などの 「革命第一世代」 の存在が大きかったと思われる。そのような世代が完全に死滅し、さらに若い世代への指導部交代が進んでいる現在、官僚出身の新たな指導部による軍の統制は、これまで以上に困難になりはしないだろうか。 戦前の日本を思い起こすならば、明治維新における 「革命第一世代」 ともいうべき伊藤や山県ら元老指導者の死滅が、国家機構とその意志の深刻な分裂を招き、ひいては 「統帥権の独立」 を盾に取った軍の暴走をだれも止められないという事態を引き起こしたのではなかっただろうか。
上で戦前の日本と現在の中国を比較したのは、あくまで国内政治状況についての一定の類似性に過ぎません。広大な領土と膨大な国民を抱えた中国の場合、戦前の日本のような体外進出の余力はそれほどないでしょうし、国際状況もむろん当時とは違います。 旧ソ連もそうですが、一般的に言えば、広大な大陸国家の軍隊は守りには強くとも、攻めはあまり得意でないものです。なので、これは、いわゆる中国 「脅威」 論を意味するものではありません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.03.25 14:41:52
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