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カテゴリ:国際
ありていに言えば、普通に生活している人間というものは、あったかい家庭があり、食べるものに不自由せず、それなりの自由や余暇を楽しむ余裕があれば、幸福を感じることができるものだ。いつの時代にも、社会で最も多数を占める普通の生活者というものは、国家がどうだの政治がどうだのといった問題に、それほど関心があるわけではない。大事なのは、まず自分や自分の家族、一族、友人らが幸せに生きていけるかどうかということだろう。 実際、スターリンの巨悪が 暴露されたあとでも、弾圧を直接経験したり、身近に見聞したりしたこともない人らの中には、あの時代はよかったと回想する人も存在したというし、戦後のイタリアにも、ムッソリーニの時代を懐かしむ人らはそれなりに存在 したという。どんな国家でも体制でも、すべての人々が弾圧され、抑圧されているわけではない。そんなことは現実的に不可能であるし、そんな社会はそもそも存立しえないものだ。 たとえば、江戸時代のような身分制社会であっても、支配者であった上層武士以外のすべての者が、「士農工商」 だのといった身分制度に不満を持ち、ひそかに心の奥底で 「オレは抑圧されているぞー」 などと思っていたわけでもあるまい。福沢諭吉は、「封建制度は親の敵でござる」 と言ったそうだが、それはごく稀な例である。ある社会に生まれ落ち、その中で育った人間にとって、社会の基本的な制度というものは、いわば空気のようなごく自然なものとして存在する。 「人権」 だの 「平等」 だの 「政治的自由」 だのといった理念がいまだ存在しない時代や社会で生きている普通の人々は、そのようなことでいちいち不満を感じたり不平を言ったりしないものだろう。そのような社会では、殿様の子が殿様になり、百姓の子が百姓になるのはだ当たり前のことにすぎない。 だが、それでも人間は、ときには自分の根本的な自由が束縛され、人間としての自分たちの尊厳や存在そのものが脅かされていると感じることもある。伝統的な社会では、宗教というものは、そういう感情を最も呼び起こしやすい領域の一つと言える。 しかし、社会の少なからざる成員によって、それまでは当然であった社会の基本的な制度が抑圧的であると感じられるようになれば、そのような社会の安定は失われる。それは、すでにそのような制度が、役目を終え生命力を失っていることの証である。その正当性が社会の多くの成員から疑いの眼差しで見られるようになった制度は、いずれ崩壊せざるを得ないだろう。 「人権」 といった理念が登場したのは、まさにそのような理念が社会によって求められていたからである。そしてそのような普遍的な理念がいったん登場した以上、その広がりをとどめることは不可能であり、ある国家なり社会なりが、そのような理念を尺度として外部から測られるようになるのは、当人らが不平を言ってもしょうがないことである。まして、それが、現在の世界の中で無視し得ない国のことともなれば当然のことである。 ナショナリズムというのは、魔法のようなものである。今日の 「主権国家」 なるものがすでに幻想でしかないことを知っているものにとっては、「国民国家」 だの 「独立国家」 だのは、ただの夢幻にすぎないと言うことは簡単なことだ。だが、一見うまそうに見える果物をすでにかじったあげくに、そのすっぱさを知ってしまった者が、その果物をいまだ手の届かぬはるか下の方から羨望の眼差しで見つめている者に対して、あの果物はすっぱいのだよ、と説教したところで始まるものでもない。 果物のすっぱさは、その果物を食べてみたことのある者にしか分からないものだ。そこで、自前の 「国家」 を欲し、「独立」 を求めている者らに対して、すでに 「国家」 という果物の味を享受している者らが、「いやいや、あれは君が思っているほど、うまいものでもないのだよ、あんなもの食べたら、あとで後悔するだけだから、止めた方がいいと思うよ」 などと説教するのは、無意味であり不遜でしかないだろう。 そもそも人間の欲望というものは、禁止されたり制止されたりすればするほど、かえって強くなるものなのだ。アダムとイブだって、あらかじめ神様から 「あの実だけは絶対に食べるなよ」 などと言われていなければ、邪悪なヘビに唆されてつい手を出してしまい、あげくのはてには楽園から追放されてしまうというような、愚かな罪を犯さずにすんだかもしれない。 なお、議論というものは、お互いの了解のもとで進められるべきものであり、互いになにか得るものがなければやる意味がない。勝ち負けだけを争う議論や、互いに揚げ足を取ったり取られたりというようなぐだぐだした議論は、ただの時間の無駄である。むろん、分かりきったようなレベルのことを、貴重な時間を使ってまでいちいち説明する気など、こちらにはない。ましてや、その程度の話をとくとくと聞かされるぐらい、うんざりとすることはない。 もっとも、こちらもいささかせっかちで、おまけに議論となると人格が変わってしまうような人間であるから、自分でわざわざ火に油を注ぎ、二の矢、三の矢を次々受けてしまったという感は否めないのだが。
だが、その結果はどうだったのか。これもまた、学ぶべき歴史の教訓というべきだろう。情報戦は確かに存在する。しかし、世界中の報道機関やジャーナリストらによる報道が、国家であれなんであれ、特定の勢力によって壟断されているかのように仮定するのは、愚劣な陰謀論の変種にすぎない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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