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カテゴリ:神話・伝承・民俗
「美しい国」 日本の 「美しい神話」 を収めた 『古事記』 には、死んだイザナミいとしさのあまり黄泉の国に降りていったイザナギが、逆に 「見たなぁー」 と言って追いかけてくるイザナミを振り切り、ほうほうの態で逃げ帰ってきたあと、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」 というところで禊をして穢れをおとすという場面がある。 そして、そのように 「イノセント」 であるからこそ、彼はアマテラスとの子生み競争では自分が勝ったと一方的に主張して、田のあぜを壊し、神殿に糞をまきちらし、あるいは機織場の屋根に穴をあけて皮をはいだ馬を投げ落としたりと、まるで朝青龍のように、やりたい放題の乱暴狼藉をやりつくす。ようするに彼の行為はすべて本質的にはただの子供のいたずらなのであり、したがってそこに悪意は存在していない。 しかし、たとえ本人には悪気のない行為であっても、それによって取り返しのつかない結果が生じたり、他人の心を傷つけたりということは、世の中いくらでもある。あとになって、「わりー、わりー。あれはただの冗談だったんだから許してちょんまげ」 と言っても、ものごとには許せることと許せないこととが存在する。大人になるということは、そのような 「悪気はなかった」 という言葉など、起きた結果に対するなんの言い訳にもならないということに気付くことでもある。 そもそも 「イノセント」 には、つねに素朴な自己肯定が付随している。「イノセント」 な状態が善と悪との区別、つまりは 「罪」 というものを知らないという状態であるなら、それは、「罪」 を知らないがゆえに、無意識に 「悪」 を行いうるということであり、また自己がはらむ暴力性を自覚していないがゆえに、それを抑制することができないということでもある。 実際、子供は 「罪」 というものを知らないがゆえに、ただの無邪気な遊びの中でときにきわめて残酷な行為を行いうる。童話や神話の世界が、しばしば残酷で暴力的であるということは、おそらくそのことと無関係ではないだろう。 子供というものは、たしかに共感能力に優れている。大勢の幼児がいる中で一人がたまたま泣き出すと、その感情は次々と伝染し、しまいにいっせいにわんわんと泣き始める。一人が笑い出すと、その笑いもまた伝染し広がっていく。 しかしそれは、いまだ子供の世界では、自己と他者の区別が明確についていないからであり、子供の心的世界はそのような 「共感」 が容易に成立するほど、未発達だからでもあるだろう。つまり、子供にとっては、共感不能なものとしての 「他者」 など、はじめから存在していない。 アダムとイブはヘビに騙されてリンゴを食べて楽園を追放されたというが、そのような 「罪」 という意識を知ることによって、はじめて人は人間となったのだろう。「罪」 を知るとは、そのように自己が他者に対して悪意を持ちえ、害を加えうる存在であるということを自覚することだ。そして、そのような自覚によって、はじめて人間は 「社会」 を形成し、「文化」 を創出することができたのだということを、この「原罪」 説話は表しているように思える。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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