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カテゴリ:国際
今年になって、ようやく二本目の記事になる。なにしろ、いろいろ忙しくてそれどころではなかったのだ。しかし、その間もイスラエルによるガザ攻撃は続き、パレスチナ側の死者は1,000名に達しようとしている。むろん、その大部分は非武装の民間人であり、中には国連が運営していた学校が、そこから迫撃砲が撃たれたとの名目で攻撃されたという報道もある。(参照) この攻撃に対して、イスラエルのユダヤ系市民の間では90%を超える支持があるという。しかし、イスラエル国内に住んでいるのはユダヤ系だけではない。イスラエル建国後も、国内に留まったパレスチナ系住民も20%程度いる。また、ユダヤ系市民の中にも、軍事力のみに頼った手法に対して批判的な人もいる。この調査がいかなる手法によったものかは分からないが、世論調査にはサンプリングによる偏りがつき物だけに、この数字にどれだけの根拠があるのかは疑問の残るところだ。(参照) イスラエルとアメリカは、武力闘争を放棄しないハマスに対して 「イスラエルの生存権」 の承認を求めている。だが、誰が見ても、イスラエルの生存自体を脅かす力など、彼らにあるはずがない。それは、まるでライオンがウサギに 「俺の生存権を認めろ」 と迫っているような話である。これほど、滑稽な話がほかにあるだろうか。現実に 「生存権」 を一貫して脅かされてきたのは、パレスチナのほうであってイスラエルのほうではない。 そもそも、国境付近の住民ではない大多数のイスラエル市民にとっての脅威は、むしろ国内や占領地内における 「自爆テロ」 のほうだろう。しかし、そのような 「テロ」 は、ハマスを一時的に弱体化させたところでなくなるわけはない。最終的な和解によって共存する道を探り、パレスチナ人に対しても平和で安定した生活を保障する以外に、「テロ」 の脅威を取り除く道はないということは、あまりに自明なことではあるまいか。 イスラエルの行動は、イスラム諸国においても様々な非難を生んでいる。それは、イスラム世界における 「世俗国家」 であるトルコやエジプトにおいても同様であり、そのような親米的イスラム諸国においては、イスラエルへの非難は、その同盟国であるアメリカに追随する自国政府への非難へも容易に転化するだろう。ナセルの後を継いだあと、親米路線に転じてイスラエルとの 「和平」 に応じたサダトが 「イスラム原理主義」 者に暗殺されたのも、そう遠い話ではない。 イスラエルは、たしかに中東における 「議会制民主国家」 かもしれない。しかし、その民主主義はユダヤ系住民にのみ許された内輪の民主主義というものだ。たしかに、パレスチナ系住民もまったくの無権利ではない。しかし、「ユダヤ人の国家」 ということを法的な 「国是」 にしている以上、非ユダヤ系住民が 「二流市民」 でしかないことは自明の理である。 彼ら非ユダヤ系住民は、兵役を 「免除」 されているという。だが、それは彼らが法的に 「第五列」 扱いされているということを意味するに過ぎない。恒常的な戦時体制下にある国家において、兵役の免除とは 「特権」 ではなく、むしろ社会的に与えられたただの 「恥辱」 であり 「罰」 にすぎない。 そもそも、国籍を有する国民一般とは区別された 「ユダヤ人」 とはなにを意味するのか。国家とは国民によって構成された組織である。フランスはフランス人の国家であるというとき、フランス人とはフランス国籍を有するすべての者を意味する。アルジェ出身のアラブ系であろうと、セネガル出身の黒人系であろうと、フランス国籍を取れば、法的に言う限りすべて平等なフランス人である。 しかし、国民をその出自や民族性、宗教によって差別する国家は、言うまでもなく近代的な意味での 「民主国家」 ではない。それはかつての南アフリカのような少数派による多数派支配であろうと、その逆であろうと同じことだ。いや、そもそも現在のイスラエルにおける多数派としてのユダヤ人そのものが、「建国」 以来の様々な政策によって達成された人為的な結果なのではないか。 歴史を振り返るならば、ユダヤ人を最も激しく迫害したのは、イスラムではなくキリスト教世界のほうである。かの十字軍が攻撃したのは、イスラム教徒だけではない。ユダヤ教徒や、さらには 「異端」 と目された欧州内部の同じキリスト教徒もまた、攻撃の的にされていたのだ。スペインのイザベラといえば、コロンブスへの援助でも有名だが、彼女が半島からイスラムを放逐して最初にやったことは、王国から改宗を拒否したユダヤ人を追放することであり、その彼らを受け入れたのは北アフリカや東方のイスラム国家であった。 むろん、現に互いの間に 「対立」 と 「敵意」 という状況が存在する以上、大昔の過去を振り返ること自体にはたいした意味はない。しかし、問題の本質がイスラムとユダヤの宗教的対立でもなければ、アラブとユダヤの長い歴史的な対立でもないことは、押さえておくべきことだ。 民族主義を伴う、近代における多民族的 「帝国」 の解体は、つねに昨日まで共存していた民族同士の敵対を生んできた。それは第一次大戦後のトルコやオーストリアの解体でも、近くはユーゴの解体やソビエトの解体でも同じことだ。だが、こぼれた水や壊れた甕を元に戻すことは不可能であるにしても、いったん解体した共存という枠組みを、より広い枠の中に取り込んで回復することは決して不可能なことではないだろう。 他者を暴力で支配する者は、自らもまた自由ではありえない。恒常的な戦時体制下での他民族への暴力的支配は、いずれ自民族の内部へ侵入し疫病のように蔓延していくものだ。暴力によって他者を黙らせようとする者は、つねにその報復に怯えざるをえない。そのような自らの暴力が生み出した 「報復」 という亡霊に怯える者らは、やがて自らの内部に、味方の 「団結」 を損ない、敵に内通する 「第五列」 が潜んでいるのではないかという恐れに悩まされ、いたるところにその姿を見るようになるだろう。 世界で最も民主的と言われた憲法を有していたワイマール共和国下で、外相を務めたラーテナウの暗殺など、数え切れないほどのテロを実行し、あるいはカップ一揆などの暴動に参加して、ヒトラー政権への道を開いた元兵士や軍人らもまた、その多くが旧植民地などでの支配によって暴力の味を覚えた者らだった。ともに 「不倶戴天」 の敵同士でありながらも、「和平」 を推進しようとしたラビンが国内のユダヤ過激派によって暗殺されたのも、彼らにとってはけっして遠い昔話ではないはずだ。 小児 芥川龍之介 『侏儒の言葉』 より
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