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 明治期の日本人による英文の著作というと、新渡戸稲造の 『武士道』 のほかに、内村鑑三の 『余は如何にして基督教徒となりし乎』 とか、岡倉天心の 『茶の本』 なども有名である。岡倉は 『東洋の理想』 にある 「アジアはひとつである」 という言葉でも知られているが、それより前に書かれ、死後に公開された 『東洋の目覚め』 という文書では、次のようなことを書いている。

十八世紀の後半、東方の略奪からうまれた信用と資本によって、ヨーロッパ産業主義の発明的エネルギーが活動をはじめる。木材のかわりに、石炭が精錬につかわれるようなった。今や、飛梭、紡績機、ミュール精紡機、動力織機、蒸気機関等のおそるべき装置が完成された。農業と協力することも、人類の産業計画を十分に解決することもなしに商業主義の時代に入ったために、西洋は、商品販売市場の発見に依存する巨大な機械になった。


 驚くのは、ここで披瀝されている天心の近代観が、かの 『共産党宣言』 での著述にきわめて酷似しているということだ。『共産党宣言』 の日本語訳は、堺利彦と幸徳秋水により日露戦争中に 「平民新聞」 に掲載されたのが最初で、天心の文章はそれよりもわずかに早い。博学で、むろん外国語に堪能な天心のことだから、それ以前に 『宣言』 を読んでいた可能性はあるし、また同様の認識を他の著作から得たという可能性もなくはないだろう。

 ノートに書かれたままで公開されなかった、天心のこの文書は、インド滞在中にその地の独立運動家らのために書かれたものらしい。その意味では、同じ英語で書かれたものでも、欧米人の目を意識した新渡戸の 『武士道』 とは性格がまったく異なる。新渡戸もまた博学な人であり、彼の 『武士道』 には、ソクラテスやアリストテレス、ヘーゲルやカーライル、さらにはニーチェやヴェブレンなど、実に多くの欧米の著作や著作家の名前が登場する。

 ギリシア神話や聖書からはじまって、当時の最新の著作家にまでおよぶ、新渡戸の猛勉ぶりには敬服する。しかし、新渡戸によるそれらの名前の引用には、脈絡も必然性もない、やたらめったらなものという印象が強い。失礼を承知であえて言うならば、それはまるで、いかめしい顔をした厳格な教師に対して、「先生、見て見て、ぼくってこんなことも知っているんだよ」 と、しきりに取り入り、その関心を引こうとしている、早熟で自意識の強い 「良くできる生徒」 であるかのように見える。

 お札にもなったほどの新渡戸には悪いが、この書で彼がやっていることは、武士道をはじめとする日本の文化が、騎士道だとかの西洋の歴史や文化といかに共通性があり、同じものであるかを強調することにすぎない。それは酷評すれば、「名誉白人」 としての処遇と承認を求める、どこにでもいる植民地エリートふうのものにすぎないように思える。

 そこには、天心のような、西洋に対抗して、アジアのアジアとしての独自性を主張する強い姿勢はいささかも見られない。もっとも、その逆に、天心の場合には、アジアがあまりに理念化されていて、中国やインドの華麗で巨大な帝国と文明が、いわゆる 「アジア的悲惨」 と裏表であったという事実がまったく無視されている。まあ、だからこそ、天心はアジア主義者の祖の一人ということになったわけだが。

 話はころっと変わるが、柄谷行人は、『ヒューモアとしての唯物論』 の最後に収められた、「日本植民地主義の起源」 という短文の中で、こう書いている。

日本の植民地政策の特徴の一つは、被支配者を支配者である日本人と同一的なものとして見ることである。それは、「日朝同祖論」 のように実体的な血の同一性に向かう場合もあれば、「八紘一宇」 というような精神的な同一性に向かう場合もある。このことは、イギリスやフランスの植民地政策が、それぞれ違いながらも、あくまで支配者と被支配者の区別を保存したのとは対照的である。

 ここで柄谷が指摘していることは、特段に新しいことではない。柄谷が言うように、日本による 「韓国併合」 は、建前上は 「日韓合邦」 という韓国側の 「要望」 を受け入れるという形で推進され、また 「内鮮一体」 などのスローガンも併合後には掲げられた。日清戦争で獲得した台湾についても、同様のことが言える。

 しかし、その内実がいかなるものであったかは、いまさら言うまでもあるまい。実際、黒龍会の内田良平によれば、日清戦争のきっかけを作った東学党の流れをくみ、韓国の側で、日韓の 「対等合併」 を目指して 「合邦運動」 を推進した一進会の指導者であった李容九は、日本に病気治療に来たさい、見舞いに訪れた内田の手を握って、「われわれは馬鹿でしたなあ」 ともらしたという。

 維新によってアジアの中で唯一近代化に成功し、大国ロシアにも勝利した明治の日本が、西欧の圧迫下で近代化を模索するアジア各地の国を憂える知識人やエリートらにとって、手本であり模範であったのは、想像に難くない。近代トルコの 「建国の父」 であるケマルにとっても、また頭山や犬養と親交が深かった、一時期の孫文にとっても、日本はまさにそのような 「希望の星」 であったことだろう。

 死の直前になって 「われわれは馬鹿でしたなあ」 と語った李にしても、内田に吹き込まれた 「日韓合邦」 は、ロシアと清という大国の圧力にさらされながら、旧態依然とした王朝のもとで、もはや時代に適合する能力を失っているかに見えていた自国の状況を打破し、日本と同様の 「改革」 を断行するための決定的な 「秘策」 であるかのように思えたのだろう。

 しかし、李に理解できていなかったのは、多民族で構成されながらも、民族なるものの存在を知らずにいた近代以前の 「帝国」 とはまったく異なった、近代に生まれた 「民族」 と、「民族」 を統合した 「国民国家」 なるものの意味である。その無理解を責めるわけにはいかないだろうが、李がやったことは、結局のところ、「前門の虎」 のかわりに 「後門の狼」 を引き入れたにすぎない。

 柄谷は、前掲の短文の中で、「日本の植民地経営の原点は北海道開拓にある」 と言っている。それはたぶんそのとおりだ。だが、それは、言うまでもなく、江戸時代の幕府による 「蝦夷地開発」 にまで遡る。歴代の幕閣の中で、最も蝦夷地開発に積極的だったのは、「賄賂政治」 で有名な田沼意次であり、彼は最上徳内に樺太探検を命じたりもしている。

 明治政府による北海道開発が、それ以前とは異なって 「何よりもアメリカがモデルにされた」 のは、おそらく柄谷の言うとおりだろう。札幌農学校にかのクラーク博士が招聘されたのは、そのことを象徴しているし、政府主導による近代的で国家的な規模の 「開発」 には、当然のことながら、近代的なモデルを必要とする。だが、それはそれだけの話に過ぎない。

 しかし、そのことを根拠として、柄谷が日本による植民地経営のモデルまで、アメリカに求めているのはたぶん間違っている。そもそも柄谷が言うように、アメリカの植民地経営が、「被統治者を 『潜在的なアメリカ人』 とみなすもの」 だとしても、それが 「英仏のような植民地政策とは異質である」 とまでは言えないだろう。実際、植民地の現地人や先住民を文化的に劣ったものとみなし、彼らを 「文明人」 へと教育するという啓蒙的・教化的な植民地政策は、なにもアメリカ特有のものではない。

 それは、スペインやポルトガルが 「発見」 し支配した植民地においても、イエズス会などの宣教師らによって早くから試みられている。そもそも、ただの金銀財宝の略奪に留まらない、前世紀における近代的なまるごとの植民地支配は、多かれ少なかれ、現地人の協力を必要とするものであり、その意味では現地人への教育などによる 「教化」と「同化」 という政策は、絶対に欠かせないものでもある。

 柄谷が言うのとは異なり、戦前の日本による植民地拡張と統治の特徴は、むしろ天皇制という、ほんらいどう考えても日本固有の制度でしかないものに、たとえば 「西洋の覇道」 に対する 「東洋の王道」 などという、ナショナルな性格を脱色した衣を着せて、天皇制があたかも日本というナショナルな枠を超えて、アジア全体に普遍的な価値として通用するかのごとくに偽装したところにある。

 そのような無意識の偽装が可能だったのは、おそらくは欧米による外圧のもと、急遽、突貫工事で建設された 「明治国家」 が持っていた、実態としてのナショナルな国家という性格にもかかわらず、近代的な意味での 「国民」 とその意識がいまだ成立していなかったという 「二重性」 と関係するだろう。

 柄谷が言うように、「八紘為宇という肇国の理念」 が、「明治以後の植民地主義イデオロギーにもとづいて、古代の文献を新解釈したものにすぎない」 としても、そのことと彼が指摘する、「アメリカの植民地政策」 とは、おそらくなんの関係もない。「理念」 というものは、たしかに遡行的に解釈され、しばしば捏造されるものでもある。しかし、そこで呼び出された理念が、たとえ欺瞞的にではあれ、必然的に帯びざるを得ない固有の 「歴史性」 とその意味を、柄谷は逆に無視し抹消してしまっているように思える(コメント欄に追記)。

 明治国家における 「国民意識」 は、対外意識、とりわけ欧米に対する意識としては成立していた。しかし、内部的な意味、すなわち国家を構成する 「国民意識」 としては成立していなかった。自由民権運動の挫折が意味するものは、そういうことであり、憲法解釈として一時は定着していたかに見えた美濃部の 「天皇機関説」 が、昭和にはいるとともに、「天皇が国家の機関などとはけしからん」 と息巻いた国粋主義者らの攻撃の前に、あっさり敗退したのもそのためである。そこには、「臣民」 はいても 「国民」 は存在していなかった。

 その結果、天皇制という制度が、西欧と同じ資本主義を動力とする事実としての 「国民国家」 を統合する、ナショナルな原理にすぎないことが自他ともに明確に認識されず、天皇制が世界に冠たる 「万邦無比」 の原理として、そのままずるずるべったりと、対外的にどこまでも拡張可能であるかのごとき錯誤が生まれた。

 内田良平の 「日韓合邦論」 や石原莞爾の 「五族協和論」 から、近衛のブレーンや種々の 「近代の超克」 論者らが掲げた「東亜共同体論」 や 「八紘一宇」 にいたるまで、アジア主義者が掲げた理念は、すべてそのような錯誤に基づいている。そして、そのような錯誤は、事実としての植民地支配とその拡大を正当化し、現実を隠蔽する論理として役立てられることになった。

 彼らがいかに、東亜の平和や共存共栄を掲げたところで、それが万邦無比の天皇制の主導を前提とする以上、そこでの 「東亜新秩序」 は、実質的には日本による支配とその拡大を意味するものでしかない。「五族協和」 や 「王道楽土」 うんぬんという民族の楽園も、現実には他の民族の 「皇民化」 を前提とし、それを強制するものでしかありえない。

 東条によって予備役へと引退させられた、その後の石原のように、たとえ、いかに現実と当初の自己の理念との乖離を嘆いたところで、そうならざるを得なかったのは、当初の理念に含まれていた錯誤からくる必然にすぎないと言うべきである。






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Last updated  2009.05.05 01:33:42
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