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カテゴリ:社会

  最近というわけでもないが、一部の 「右派」 勢力や団体、政治家らによって 「反日」 なる言葉がしきりと使われている。いわく、「反日国家」、「反日サヨク」、「反日マスコミ」、「反日外国人」 などなど、その使用例は、まことに枚挙に暇がない。

 たとえば、西尾幹二や渡部昇一のような 「学者」 や、彼らを信奉する者らに言わせると、中国や韓国、北朝鮮は 「反日」 国家であり、在日韓国人・朝鮮人らは 「反日」 外国人なのだそうだ。また、日教組や朝日新聞は「反日サヨク」であり、男女平等やDVについての啓蒙活動、性教育、差別の禁止や人権の保護などを訴えている人らもみな、「反日」 勢力なのらしい。

 彼らによれば、戦後のGHQによる占領と東京裁判、さらには日本国憲法制定によって、神武天皇の即位以来、2600年の歴史を持つ日本の古きよき伝統は破壊されたということだ。戦後の占領政策は、なにより日本と日本人を無力化することを目的としており、そのために様々な陰謀が企まれ、実行されてきたのだそうだ。それは、たとえば連合軍内に潜んでいたコミンテルンのスパイと、戦後解放された日本の左翼勢力の協力によって進められたということのようだ。

 戦後の日本社会に、ハリウッド映画やアメリカ製のドラマが氾濫し、さまざまなスポーツが盛んになり、また 「性の解放」 が進んだのも、「スクリーン、スポーツ、セックス」(3S政策というらしい)の三つを与えることで、日本人を愚昧化させようという連合国の陰謀なのだそうだ。また、学校給食にパンが導入され、それまでのコメにかわってパン食が普及するようになったのも、一部の 「識者」 によると、日本人の食生活の破壊をつうじて、家庭の破壊と日本人の弱体化をもくろんだ 「反日」 勢力の陰謀なのらしい。

 ようするに、そのような人らに言わせると、核家族化と少子化が進行して伝統的な家族制度が崩壊したのも、街中にポルノが氾濫しているのも、「反日」 勢力のせいということになる。オタクや 「引きこもり」 が増えているのも、「メイド喫茶」 とかが流行っているのも、教員や公務員のモラル低下が指摘されるているのも、つまりは戦後60年にわたって続けられてきた、そのような 「反日」 勢力の陰謀のせいであり、その成果ということになるのだろう。

 いまや、彼らはいたるところに 「反日」 勢力の陰謀をかぎつけている。「反日」 なのはなにもサヨクや一部アジア諸国だけではない。創価学会と公明党もまた、自民党に取り入って日本の国家と社会の破壊を企む 「反日」 カルト集団なのだし、「日の丸」 をおったてて、大音量で軍艦マーチなどを流している 「街宣右翼」 もまた、実は 「在日朝鮮人」 らに操られ、真正右翼のイメージダウンを狙って活動している 「反日」 勢力なのらしい。

 最近ではすっかり凋落したとはいえ、近隣諸国との協調を主張する自民党内のリベラル派も、隠れ 「反日サヨク」 なのであるし、「夫婦別姓」 や 「外国人参政権」 に積極的な社民党や民主党については、言わずもがなだろう。日本の社会には、いまやありとあらゆるところ、毛穴のすみずみにまで 「反日」 勢力は潜んでいるのである。これは、まことにたいへんな由々しき事態なのである。

 世界も日本の国内も 「反日」 勢力だらけである。われわれはついに目覚めた。新聞もテレビも、「マスコミ」 はすべて 「反日」 勢力によって牛耳られている。大学などの教育機関もそうである。したがって、そのようなものを信じてはならない。「真実」 はなによりもネットの中にある。というわけで、いまや連日連夜、彼らはネット上のあちこちの掲示板で情報を交換し、ブログや掲示板を使って 「真理」 の普及に日夜励んでいるというわけだ。

 これは、カフカもびっくりするような、ほとんど不条理な世界である。しかし、いたるところに 「反日」 勢力の暗躍を見出している彼らが守ろうとしている 「日本」 とは、いったいなんなのか。それがさっぱり分からない。それは、白砂青松の自然豊かな日本なのか。それとも、能楽や狂言などの伝統芸能や、和歌や俳句、「源氏物語」 のような、「もののあはれ」 や 「わびさび」 にあふれた世界なのだろうか。

 近代史をひもとけば、「反○○」 運動というのはあちこちにある。ガンディーが指導したのは 「反英」 独立運動であったし、中国や朝鮮では日本の侵略に対する 「反日」 運動も行われた。戦後のインドシナの抵抗は 「反仏」 から 「反米」 にかわったし、インドネシアの場合は 「反蘭」 運動ということになる。日本でも、戦後の米軍による占領や基地に対する抗議活動などが、「反米」 闘争と呼ばれたことがある。

 これらの運動は、すべて具体的な内容と目標を持った、具体的な運動ばかりである。したがって、そこで使われている 「反○○」 なる言葉も、当然ながら具体的な意味、言い換えると明確に限定された意味を持っている。しかし、現在使われている 「反日」 なる言葉は、これとまったく異なっている。それはただの恣意的なレッテルにすぎす、具体的に限定された意味内容を持っていない。

 むしろ、それはすでに見てきたように、現在の日本がかかえる様々な問題の 「根源」 であり、現代における 「根本悪」 として一括して名指しされた、想像上の 「敵」 の名称でしかないように見える。しかし、現代社会の複雑な問題が、すべてある特定の勢力や、ただひとつの原因によって生じていると考えるのは、きわめて粗雑な問題の単純化でしかない。そこからうかがえるのは、社会全体を見通すと同時に、個別の問題をひとつひとつ整理するという能力の完全な欠如であり、おのれの知的無力と無能の告白ということになるだろう。

 結局のところ、彼らはおのれが敵視した相手に 「反日」 なるレッテルを貼ることで、自分たちが抱いている 「日本」 または 「日本人」 なるものとその価値を確認しているにすぎぬように見える。つまり、これは論理が逆なのであり、他者に対して 「反日」 なる本来は対抗的でしかないレッテルを貼ることによって、はじめて 「日本」 と 「日本人」 なるものを確認するという、逆転した自己確認の言葉にすぎぬように思える。

 言うまでもないことだが、日本人を親とする、生まれながらの日本人が日本人であることには、なんの対価も努力もいらない。だから、「日本」 や 「日本人」 なるものを価値とするならば、これまた本人にとって、なんの努力も代償もいらないきわめて手軽な価値だということになる。なにしろ、それにはただ 「自分は日本人だ!」 と叫びさえすればよいのだから。

 しかし、それでは、どの日本人も等価ということになる。それでは、あまりに虚しかろう。そもそも価値とは差異の体系であるから、自己と他者を差別化できなければ意味がない。それに事実はそれだけでは価値とはならない。たんなる事実を価値とするものはやはり基準であり規範であるから、なんらかの価値基準が必要である。そこで引っ張り出されるのが、「真の日本」 であり 「真の日本人」 ということになる。だが、それはいったいなんなのか。やはり、わけがわからない。

 しかし、空疎な価値といえども、走り続ける自転車のように、たえずそこに差異を持ち込むことによって維持することは可能かもしれない。だから、彼らは自己が敵とみなしたものに対して、次々と 「反日」 なるレッテルを貼っていかねばならない。つまり、彼らが自らの価値観の基準としているであろう 「日本」 と 「日本人」 なる価値は、国家や社会の外部だけでなく、内部においても「反日」 的なものを見つけ出し、次々にそういうレッテルをはることによってしか維持できないということになる。

 彼らにとっては、「日本」 と 「日本人」 なるものは、なによりも相対化できない絶対的価値でなければならない。だが、そのためには、「日本」 や 「日本人」 なるものを具体的に措定することは禁止されねばならない。なぜなら、具体化とは限定化と同義であり、限定化されたものはいずれは相対化をまぬがれないからだ。

 彼らのいう 「反日」 なるものが、つねに恣意的なレッテルでしかないのは、おそらくそのためでもあるだろう。彼らにとっての 「日本」 と 「日本人」 なるものが、いつになっても具体的で明確なものではありえぬのは、まさに理の必然なのである。

 むろん、いうまでもなく、自己認識は他者を鏡とすることによって得られるものである。だが、最初に空疎な 「日本」 なるものを価値基準とすることで得られる彼らの他者認識は、当然ながら虚偽の認識でしかない。したがって、「反日」 なるレッテルによる反照として得られた彼らの自己認識は、結局のところ当初の空疎な自己認識をただ再確認するものでしかないということになる。つまりは、自分の尻尾に噛み付いているヘビのような話である。






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Last updated  2009.08.10 08:39:19
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