「節分」 とは、ほんらい春・夏・秋・冬の季節の分かれ目のことであり、立春・立夏・立秋・立冬のそれぞれ前日を指す。いまでも正月のことを新春と呼ぶ習慣が残っているように、もとは春が新年のはじまりであって、旧正月と暦上の冬と春の区切りである節分はほぼ同時期になる。
ただし、立春が太陽の運行に基づいているのに対し、旧暦は基本的に月の運行に基づいているから、正月と立春の関係はかならずしも一定しない。ときには、年が明ける前に立春を迎えて春になることもあり、そこから、明治に短歌革新を掲げた正岡子規により、「実に呆れ返つた無趣味の歌」 などとぼろくそにいわれた、古今和歌集巻頭のこんな歌も生まれている。
としのうちに 春はきにけり ひととせを
こぞとや いはむ ことしとや いはむ
たしかに、この歌の意味は、年のうちに春が来てしまった、それじゃいったい今日から正月までは、去年になるのか、今年になるのか、どっちなんだ、というたわいもないものだが、「実に呆れ返った無趣味の歌」 とはいささか手厳しい。なお、この歌の作者は在原元方といって、伊勢物語の主人公でもある在原業平の孫にあたる。
「節分」 といえば当然豆まきであり、したがって鬼の話ということになるのだが、大正15年に三田史学会で行われた講演をもとにした、折口信夫の小文 「鬼の話」 は、次のように始まっている。
「おに」 という語にも、昔から諸説があって、今は外来語だとするのが最も勢力があるが、おに は正確に 「鬼」 でなければならないという用語例はないのだから、わたしは外来語ではないと思うている。さて、日本の古代の信仰の方面では、かみ (神)と、おに (鬼)と、たま (霊)と、もの との四つが、代表的なものであったから、これらについて、総括的に述べたいと思うのである。
ここで彼が言っている、おにを 「外来語だとする」 説というのが、具体的にどういうものを指すのかは知らない。ただ、すなおに考えるなら、中国から入ってきた 「鬼」 という漢字に 「おに」 という読みがあてられたということは、漢字導入より前に 「おに」 なる言葉があったということになるだろう。ただし、それは、漢字で表された中国の鬼とまったく同じというわけではあるまい。
「魏志倭人伝」 には、卑弥呼について 「鬼道を事とし能く衆を惑わす」 とある。「鬼神を敬してこれを遠ざく」 とは孔子の言葉であり、「断じて敢行すれば鬼神もこれを避く」 とは、『史記』にある趙高の言葉だが、中国での鬼とは、もともと死霊のことを指す。「怪力乱神を語らず」 と孔子は語ったが、儒教とはもともと祭祀の礼からはじまったそうだから、孔子とて、そのような存在まで否定したわけではない。
ついでにいうと、プラトンの 『ソクラテスの弁明』 によれば、彼は少年のころから 「ダイモンの声」 を聞いていたそうで、田中美知太郎はこの 「ダイモン」 を鬼神と訳している。ソクラテスの罪状は、神を認めず青年を惑わしたというものだが、ダイモンの声をつね日頃聞いている自分が神を認めぬはずがないではないかと論じて、ソクラテスは自己の無罪を主張したということだ。
さて、日本の文献で 「鬼」 という文字が最初に登場するのは、奈良時代に編纂された 「出雲国風土記」 らしい。これには、古老の話として 「昔ある人、ここに山田をつくりて守りき。そのとき目一つの鬼きたりて田作る人の男を食らひき」 という話が残されている。これ以降、鬼は人を襲い人を食らう恐ろしい存在として、様々な史書や説話に登場する。
なかでも有名なのは、源頼光が四天王の一人、渡辺綱に片腕を切り落とされ、のちに綱の養母に化けて腕を取り戻しにきたという、大江山の鬼の話だろう。もうひとつは桃太郎の鬼退治だが、こちらは、崇神天皇によって今の岡山に派遣された四道将軍のひとり、吉備津彦命(きびつひこのみこと)が、吉備の鬼ノ城を拠点とした温羅という名の鬼を退治したという伝説に基づくという説が有力のようだ。
この吉備津彦命とは、七代目の天皇である孝霊天皇の皇子ということになっており、したがって、奈良の箸墓古墳に埋葬されているとされ、一部の学者によって卑弥呼ではないかとも言われている、倭迹迹日百襲媛命(やまとととびももそひめのみこと)の弟ということになる。
こういった鬼についての、『鬼の研究』 という本での歌人の馬場あき子による分類を借りると、日本の鬼はおおよそ次のように分類できる。
(1) 最古の原像である、日本民俗学上の鬼(祝福にくる祖霊や地霊)
(2) 道教や仏教を取り入れた修験道成立にともなう山伏系の鬼(天狗も)
(3) 邪鬼、夜叉、羅刹、地獄の鬼などの仏教系の鬼
(4) 放逐者や賎民、盗賊などの「無用者の系譜」 から鬼となったもの
(5) 怨恨・憤怒・雪辱など、さまざまな情念をエネルギーとして鬼となったもの
秋田のなまはげのように、新年の民俗行事に登場する素朴な鬼は、おそらく最も古い(1)にあたるだろう。いっぽう節分での鬼退治は平安のころ、中国伝来の宮中行事から始まったそうで、もとは新年の祝福に来ていた(1)の鬼が、その影響を受けて(2)や(3)の鬼に変化したもののようにも思える。
かりにそうだとすると、かつては新年に歓待されていた鬼が、いまや子供にすら豆を投げつけられて追い払われるようになったわけで、ずいぶんと落ちぶれたものだ。最後は、上で冒頭を引用した折口信夫の 「鬼の話」 の結語から。
まれびと なる鬼が来た時には、できる限りの歓待をして、悦んで帰って行ってもらう。この場合、神あるいは鬼の去るに対しては、なごり惜しい様子をして送り出す。すなわち、村々にとっては、良い神であるが、長く滞在されては困るからである。だから、次回に来るまで、ふたたび、戻って来ないようにするのだ。こうした神の観念、鬼の考えが、天狗にも同様に変化していったのは、田楽に見えるところである。
なお、現代で鬼を比喩に用いるとすると、「土俵の鬼」 とか 「将棋の鬼」 などとなる。「土俵の鬼」 とは初代若乃花(つまり、このたびめでたく協会理事に当選した貴乃花の叔父)であり、「将棋の鬼」 とは大山康晴のライバルだった升田幸三のことだが、このような鬼という言葉からは、ただ強いだけでなく、勝負にすべてをかけ、それ以外のことはいっさい顧みないという、いささか狂気じみたものすら感じられる。
このような表現は上の(5)の応用のようなもので、その強さとは、もちろん相手を圧倒する攻撃を主とした剛の強さであり、したがっていったん受けにまわると、あっけなく敗れてしまうというイメージも伴う。ただし、実際のところ、この二人がどうだったのかまでは、残念ながらほとんど知らない。