「足し算」あるいは「おまけ」の幸福論
最近,なかなかお子様が生まれない人と面談することがあった。不妊治療は大変な労力とお金がかかるようだ。こんなことをいわれるのが,いやだそうだ。子どもに金がかからなくて,いいですね,とおそらく,言った人は,お子様がいない人に対する気遣いのつもりであるが,当人としてみれば,大変つらい言動であるということだ。子育てに金を掛けることも,苦労をすることもしたくてもできないという悲しさだ。ところで,私は,子どもの出産に立ち会った。出産をするということは,全身の力を出し切る壮絶な営みと思えた。 やっと子どもが生まれ出てきたとき,自然に涙がとどめもなく出ていた。直ぐに抱かせてもらった。軽い,軽い体重。しかし重い命の重さ。ガラス細工の置物を抱いているようだった。こんな未熟ものの親でいいのかなあ。私たちのところに来た以上は,幸せにしてやらないといけないなあ。 そんなことを思った。ところで,ときどき,妻ばかりでなく長女も,チンタラしているほん太に対し「おうさんは,甘い」といって体罰でもして,ビアノ,勉強さらには行儀もよくさせて欲しいといわれることがある。私は,子どもの命の重さを思うとき,ビアノ,勉強,行儀くらいで体罰を与えるつもりはない。家の外ではない。家は,修行の,闘いの場所ではない。憩いの場所である。ほん太がリビングで寝そべって新聞を読んだり,行儀が悪いのは間違いない。いろいろな人と出合っていると子どもたちが元気よく朝行っています,という姿をみるだけで,よいのではないか。あとは単なる足し算,おまけではないか,と思ったりする。