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中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

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2005.06.05
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竹原小早川氏の御館推定地(T氏宅)のすぐ北東に、竹原市内でもっとも多くの中世の石塔を残す区画があります。

石塔の内訳は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)が10基、五輪塔(ごりんとう)は20基ほどですが、そのほかにも、各石塔の部材が散乱し、ひとつの形をつくっている石塔の多くも、こうした各部材を寄せ集めて組まれたものになります。

このため、石塔の調査では、石塔をただ数えるのではなく、宝篋印塔や五輪塔を構成している各部材ごとの数を調べ、そこからもともとあった石塔の数を推察します。
この方法によると、このあたりには、宝篋印塔の場合、笠の部分がもっとも多く残り、その数は27基。五輪塔は、水輪がもっとも多く、38基を確認できます。
ここから、このあたり一帯には、戦国末には、少なくとも27基の宝篋印塔と、38基の五輪塔が立ち並んでいたことがわかります。

このため、この土地は、いま「小早川家墓地」とよばれて、竹原小早川家の墓地として紹介されています。
石井進氏も名著『中世武士団』(小学館)のなかで、「竹原家の墓地にまちがいあるまい」と指摘しています。

しかし、竹原小早川家の歴代当主の墓域は、氏寺のあった「法浄寺」であり、ここではありません。
また、基壇の上に立つ大きな宝篋印塔を除けば、ほかはすべて16世紀の宝篋印塔であり、歴代当主の墓地とみるわけにはいきません。

それでは、ここはどのような場所なのでしょうか。
その続きは、次回、報告しましょう。





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最終更新日  2005.06.09 00:40:18
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