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中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

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2005.06.07
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小早川墓地の中心に立つ宝篋印塔です。
墓域内にある宝篋印塔のなかでも最大のものになります。
しかも、この塔だけが、唯一切石で組まれた基壇(高さ48.5、幅236センチ)の上にそびえ立っています。

宝篋印塔を構成する基礎・塔身・笠・相輪のすべてをそろえていますが、本来の部材による組み合わせではなく、別々の宝篋印塔の各部材を寄せ集めて組み合わせたものとなります。

このうち笠は、三原市米山寺の近くにある慶長3年(1598年)の宝篋印塔の笠と同じように、階段状の蹴上げ部分をやや内側に食い込ませており、16世紀の製作と考えられます。

これに対し基礎は、14世紀後半、おそらく1470年以降のものとみてよいでしょう。

したがって、もともとは、この基礎のうえに、およそ154センチほどの宝篋印塔が立っていたことになります(現在の塔より15センチほど高くなります)。

やがてその塔が崩れ落ち、その後、まわりの宝篋印塔の部材のなかから、ほど良い大きさのものを集めて組み立てたのでしょう。

それがいつのことかはわかりません。
しかし、1825年に完成した安芸国の地誌『芸藩通志』では、笠を7つ重ねた形をしていたように記されており、現在とは形が異なります。

また小早川墓地の石塔は、昭和35年7月15日に発生した山崩れで埋まったものを、地元のかたたちが昭和46年11月28日と、49年12月15日の2度にわたって掘り返し、整備したものになります。
このとき、この中心の宝篋印塔だけは、もとのまま組みなおしたといいますから、現在の組み合わせになったのは、それ以前、おそらく明治のころではないでしょうか。

各地に残る宝篋印塔のなかには、このようにあとで組みなおしたものが多数を占めています。
このため宝篋印塔を調査するときは、各部ごとに細かく観察する必要があるのです。
それとともに、地元のかたたちの熱意によって大切に守られてきたことも忘れてはならないでしょう。





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最終更新日  2005.06.19 19:03:58
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