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中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

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2005.06.08
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多くの石塔が立ちならぶ「小早川墓地」から、さらに山にのぼると、2基の宝篋印塔が立つ小さな平壇があります。
以前は、現在地より2メートルほど谷より(墓を見て左側)に立っていたそうですが、谷に落ちる危険がでてきたため、向きはそのままに、地元の方が協力して現在地に移しました。

今は、木々に覆われて視界はききませんが、かつてここからは、左手に、小早川氏の信仰を集めた僧都八幡宮や、小早川氏の居城の木村城、正面には青田の耕地(ここは「古町」「馬場垣内」の地名を残し、当時は城下町だったようです)、そして右手に小早川氏の館跡推定地を一望できたといいます。
つまり、この宝篋印塔は、城下を見下ろしながら立っていたのです。

このように、石塔は、村を見下ろす位置にも、よく立てられました。

いずれも16世紀の宝篋印塔ですが、2枚の写真のうち、左(下の2基が並んで立つ写真では右側のもの)の宝篋印塔(基礎の幅36.7センチ)のほうが、右の宝篋印塔(同左側・基礎幅36.5センチ)よりも、やや新しいタイプになります。
ただし、2基とも、各部材を寄せ集めて宝篋印塔に組み立てたもので、もともと組み合わせではありません。

地元では、この二基の宝篋印塔を「ダイカンさん・コウカンさん」と呼んでいます。
これは、小早川興景(天文12年・1543年没)の法名「宝常寺体岩全公」、妻(興景没後、杉原盛重と再婚)の法名「安楽寺豊岩昌隆大姉」によったものらしく、『芸藩通志』の村絵図にも「小早川興景夫婦墓」として記されています。
ただし、どちらが「ダイカン」「コウカン」なのかは、わかりません。

しかし、その大きさは、小早川当主の墓塔としては、やや小さいようです。
また、興景の法名には、氏寺の「法常寺」の名がつくことからすれば、彼の墓所は、ここではなく、法浄寺の裏山にあったとみたほうがよいでしょう。
したがって、かりに興景にかかわる石塔だとしても、墓塔ではなく、供養塔とすべきでしょう。

さらに、興景の妻の法名は「ホウガン」であって、「コウカン」ではありません。
この点から、これを伝承とおり「興景夫婦墓」とみるわけにはいきません。

では、「コウカン」とは誰なのでしょう。
その有力な候補者は、興景の父弘平です。
弘平の法名は、「功岩全公」といいました。
したがって、「ダイカン」「コウカン」という名称が、なんらかの歴史の史実を伝えているとするならば、この2基は、弘平・興景親子の供養塔だったのかもしれません。
そうなると、年代がやや古い右の写真の宝篋印塔が弘平(コウカン)で、左が興景(ダイカン)ということになります。

この宝篋印塔については、まだわからない点が多いため、夏に改めて詳しい調査を予定しています。





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最終更新日  2005.06.09 23:52:31
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