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カテゴリ:竹原市・東広島市 石塔
法浄寺跡には、いま石塔は、ほとんど残っていません。
しかし、明治の初めまでは、裏山に設置されている堰堤の左側一帯に、墓が立ち並んでいたと伝えられています。 おそらく、戦国時代は、裏山一帯をテラス状に切り開いて、墓域が広がり、石塔が立ち並んでいたのでしょう。 戦前・戦後の国道工事でも、宝篋印塔や五輪塔が多数出土しています。 しかし、せっかく掘り出された石塔も、みな散逸し、いまとなっては、寺跡やその近くの高原家の墓地に集められた石塔のほか、明木庵家の墓地に移された石塔、市内の歴史民俗資料館に移された石塔など、ごわずかになってしまいました。 それでも貴重な石塔が残されています。 なかでも、歴史民俗資料館に保管されている宝篋印塔(写真)の基礎は、幅が40.2センチあり、14世紀中ごろの特徴をもちます。 基礎幅からすると、もともとは4尺5寸塔として立てられたものでしょう。 その大きさから見て、小早川家当主の墓塔、あるいは供養塔とみて間違いありません。 基礎の上にのる塔身・笠・相輪は、本来の部材ではなく、寄せ集めて組まれたものですが、笠は、基礎とほぼ同じ頃に製作されたものとみてよいでしょう。 資料館にはもう一基、宝篋印塔の基礎が保管されています(宝篋印塔の左に小さく写っています) こちらは、基礎幅が31.5センチと小さく、その大きさからみて、一族の宝篋印塔の基礎として使われていたようです。 15世紀前半頃のものでしょう。 このように、資料館には、貴重な石塔が残されています。 しかし、この石塔に気づく見学者は、ほとんどいません。 なぜなら、石塔は、建物の裏手、しかもトイレのすぐ近くにあり、トイレに行かなければ、わからないような場所にひっそりと置かれているからです。 墓塔(あるいは供養塔)がトイレの横に置かれているのです! 説明板などはいっさいなく、宝篋印塔の塔身の上下も、さかさまになって組み合わされています。 これでは、貴重な文化財が台無しです。 竹原市は、豊かな歴史をもち、その遺産を町おこしの起爆剤にしていますが、中世の歴史遺産の重要性については、なかなか理解をいただけません。 資料館にある石塔ですら、このような扱いなのです。 このため、きわめて多くの石塔が残る全国でも貴重な地域にもかかわらず、市の文化財に指定されている石塔は、1基もありません。 この問題は、2年前の講演会でもとりあげて指摘したことなのですが、いまだに実現していません。 また、「歴史民俗資料館」といえば、聞こえはよいのですが、実体は資料館とは名ばかりで、学芸員もいません。 このため、展示内容のレベルも、おそまつなもので、文化財を保管している倉庫にすぎません。 せめて非常勤でもよいから、研究者と連携して質を高めていく努力をすべきではないでしょうか。 もちろん、危機感をもって改善しようと努力されているかたも多数いらっしゃいます。 しかし、行政が動かなければ、予算もつきません。 竹原市は、いつになったら重い腰をあげるのでしょうか。 歴史遺産が散逸し、観光客も減少して、はじめてあわてて動き出すのでしょうか。 それでは遅すぎます。 歴史遺産は、なくなってしまえば、二度と手にはいらないのですから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.06.12 00:43:50
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