223804 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

カレンダー

日記/記事の投稿

カテゴリ

バックナンバー

2024.11
2024.10
2024.09
2024.08
2024.07
2024.06
2024.05
2024.04
2024.03
2024.02

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2005.07.05
XML
いつも私たちの調査でお世話になっている竹原郷土史研究会のFさんより、会員のTさんが撮影されたという宝篋印塔と五輪塔の写真が送られてきました。
いずれも竹原市の西側に隣接する安芸津町(今年、東広島市と合併しました)の木谷(きだに)にある慶寿院(写真上2枚)の宝篋印塔と、風早(かざはや)にある観音寺(写真下)の五輪塔だそうです。

慶寿院の宝篋印塔は、笠の数をかぞえると、10基ほどあります。
この写真だけでは、よくわかりませんが、笠の隅飾りの形や、高さのある基礎の特徴などから、16世紀も後半以降の宝篋印塔のようです。
ただし、一番上の写真に写る、一番右側の宝篋印塔は、少し古いタイプの宝篋印塔かもしれません。

一方、観音寺の五輪塔は、写真に写るものだけでも、16基ほどありますが、いずれも16世紀のもののようです。
ただし、右から8番目の五輪塔の笠は、やや古いタイプのようにもみえます。

こうした宝篋印塔や五輪塔は、多額の造営費用がかかるため、誰もが簡単に建てられれるようなものではありません。
これまでの調査によれば、小早川領内にある五輪塔や30センチ未満の小型の宝篋印塔は、小早川家の家臣クラスが建てたもの、宝篋印塔は、小早川家当主や、その一族が建てた石塔とみて、ほぼ間違いないでしょう。

その点を踏まえて、あらためてこの2枚の写真を見ると、慶寿院には、宝篋印塔が数多くありますが、観音寺には、五輪塔しかなさそうです。

このうち、慶寿院の宝篋印塔は、「木谷備中(きだにびっちゅう)墓」と伝えられ、寺の背後には、木谷備中の城と伝える尾首城があったといいます(『芸藩通志』)。
ただし城跡は、『広島県中世城館遺跡総合調査報告書・第三集』でも、確認されてはいません。
また、木谷備中守がいつ頃の人なのか、これもわかりませんが、小早川一族の木谷氏とみて間違いないでしょう。

これに対し、観音寺の五輪塔は、林修理進の墓と伝えられているそうです。

この点から、宝篋印塔は小早川家当主やその一族が建てたもの、五輪塔は小早川家の家臣クラスが建てたものというさきほどの仮設は、この安芸津でもあてはまるようです。

このように、五輪塔や宝篋印塔の残り具合を調べることは、その場所が小早川家臣にゆかり土地なのか、当主や一族にゆかりのある土地なのか、このことをあきらかにするための材料にもなるのです。

ちなみに、木谷と風早、そして両者の中央に位置する三津は、中世は3か村で「三津村」とよばれ、なかでも風早は、『万葉集』に「風早の浦に船泊して夜作る歌」と記されるように、奈良時代から風を待つ船の港として使われてきました。

このため、小早川氏は、実義の時代(延文5・1360年閏4月)に「三津村地頭職」を手に入れ(小早川家文書)、以後、小早川家の外港として使用されていきます。
室町時代の小早川家の正月儀礼を記した文書にも「三津船ばんしやう」とあり、船の番匠がいました(小早川家文書)。
小早川家の木村城から三津村へは、東野の在屋(ありや)の谷を経由して、峠を越えて木谷にでる道が使われたのでしょう。

こうした点を踏まえて、今年の夏、より詳しい調査をおこないたいと考えています。
貴重な情報、ありがとうございました。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2005.07.06 00:24:00
[竹原市・東広島市 石塔] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.
X