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カテゴリ:竹原市・東広島市 石塔
先日、紹介した東広島市河内町の竹林寺には、多くの宝篋印塔や五輪塔が境内各所に散在しています。 今回は、時間の関係で細かな調査はできませんでしたが、それでもパーツごとに数えていくと、宝篋印塔は、基礎がもっとも多く9個、五輪塔は、地輪(基礎)を71個を確認できました。 ここから、少なくとも江戸時代の初期には、80基の石塔が境内周辺に建ち並んでいたことがわかります。 ご住職さまのお話によると、まだまだ土の中から出てくるとのことでしたから、実際の数は、もっと多かったとみてよいでしょう。 中世、竹林寺は、安芸国の武士団、平賀氏の援助を受けていました。 いまも多く残る宝篋印塔や五輪塔は、平賀氏に関わる石塔とみてよいでしょう。 なかでも、本堂の前に建つ宝篋印塔が目をひきます。 基礎の幅は、60.6センチ、高さは、41.5センチもあり、側面の高さも29.9センチあります。 また、輪郭の幅は、上部が3.3センチ、左が7.2センチ、下部が4.0センチあります。 笠も大きく、高さは、48.6センチ、軒幅も、54.7センチあります。 少し細かい話になりますが(とばして読まれてもかまいません)、時代の特徴がもっともよくあらわれる基礎の比率を計算すると、全体の高さと幅の比率は、0.72、側面の縦横比率は、0.49、全体の高さと基礎上部の比率は、0.28となります。 また、上下の輪郭の幅の比率は、1.21、上と左の輪郭の幅の比率は、2.18、基礎幅と横の輪郭幅の比率は、0.12となります。 基礎の格狭間は、花頭形がゆるやかな斜線で左右に開くB型ですが、左右のカーブは、側面に対して垂直におりるように円弧を描きます。 また基礎の花頭形の幅は、円弧幅よりわずかに短いことから、1370年代以降の製作と考えられます。 茨の内側で脚を切るところも14世紀の基礎の特徴を備えています。 ただし脚は高く、その幅は、輪郭幅の1/4となります。 このように、各部の比率は、そのほとんとが14世紀後半の数値を示し、各部の特徴も、14世紀後半の基礎とみて違和感はありません。 しかし、輪郭の横幅が同時期のものとしてはやや広く、輪郭上部と横の比率が14世紀の数値(1.8以下)を超えています。 この点から、ひとまず、15世紀初頭の宝篋印塔とみておきましょう。 その大きさから見て、この宝篋印塔は、先祖供養と一族の結束・繁栄を願って、平賀氏の当主と一族によって造立したものと考えられます。 さきの年代比定が正しければ、平賀弘章の時代の造立となります。 当時、大内方に属していた弘章は、応永10年(1403)、守護方の山名軍と激しく戦い、三人の子供を失っています(平賀家文書248)。 この塔には、こうした激しい戦乱を生き抜くため、一族の結束をはかろうとした弘章の願いが込められていたのかもしれません。 あるいは、その弘章が応永19年(1412)に世を去り、その供養も兼ねて、一族の結束をはかろうと、孫の頼宗が造立したものなのかもしれません。 ところで、この基礎の格狭間は、沼田小早川氏の氏寺であった米山寺の同時期の宝篋印塔と比べると、左右のカーブの造り方が少し異なります。 これは、石工の違いによるものなのでしょう。 竹林寺は、江戸時代、尾道の石工に発注をしたことがありますから、この宝篋印塔も尾道の石工が製作したと考えたいところです。 しかし、いまのところそれを特定するだけの材料がありません。 石工や生産地がわかると、石塔の流通も解き明かすことができるのですが、こうした重要な事柄ほど、よくわからないのです。 また、平賀氏の援助をうけた竹林寺に立ち並ぶ宝篋印塔と、小早川氏の援助をうけた米山寺に立ち並ぶ宝篋印塔を比較すると、米山寺の宝篋印塔のほうが良い造りをしています。 幕府奉公衆としての家格を誇り、瀬戸内海の交易も押さえて発展した小早川氏の財力の大きさは、こうした石塔の質の違いからも、うかがえます。 このほか、小早川氏の領域では、宝篋印塔と五輪塔の比率は、1対4.6程度になります。 これが小早川ゆかりの寺になると、宝篋印塔の割合が増し、たとえば、米山寺では、5対2と逆転します。 本郷町の永福寺においても、宝篋印塔と五輪塔の割合は、3対4と拮抗します。 これに対し平賀氏の竹林寺では、1対9以上の割合で、五輪塔の数がぐっと多くなります。 しかしこの割合は、平賀氏に限らず、ごく一般的にみられる割合ですから、小早川氏の領域が、むしろ特殊だといってよいでしょう。 それが何を意味するのか、まだはっきりとはわかりませんが、小早川氏は、その財力をもって一族クラスのものも宝篋印塔を造立しましたが、平賀クラスになると、当主クラスしか宝篋印塔を造立できなかったようです。 その本格的な謎解きは、これからの課題です。 ところで、今日の大河ドラマ「義経」では、大きな五輪塔が出てきました。 木曾義高の供養塔という設定ですが、五輪塔の形が時代とまったくあっていません。 火輪の形もそうですが、貧弱な水輪は、鎌倉時代のものには見えません さらに言えば、義経が頼朝にしたためた起請文に牛玉宝印(ごおうほういん)という特別な紙が使われていましたが、起請文に牛玉宝印が使われるのは、もう少しあとの13世紀後半と考えられています。 このあたり、時代考証がめちゃくちゃです。 もっともドラマも荒唐無稽な話ですから、細かなところに目くじらをたてる必要はないのですが、タイトルバックに「時代考証」の文字を堂々と出す以上は、もう少しまともなドラマを制作してもらいたいものです。 なかでもお粗末だったのは、壇ノ浦で法皇から届いた書状を読むシーン。 ここでは、なんと一の谷の合戦で使用した感状がふたたび使われていました。 どうせ視聴者には、わからないとでも思ったのでしょうか(だとしたら視聴者もなめられたものです)。 大河ドラマは、所詮、この程度の作りかたなのです。 大河ドラマは、あくまでもフィクションであって、歴史ではありません。 水戸黄門や暴れん坊将軍、さらには大奥などと同じレベルで、気軽に楽しまれるのがベストな見方ではないでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.05.09 11:03:30
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