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中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

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2005.10.02
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前回に続いて、風早の浄福寺にある宝篋印塔のお話です。

風早は、『万葉集』に、「風早の浦に船泊して夜作る歌」と記されるように、奈良時代から、風を待つ船の港として利用されてきました。

このため、竹原の小早川氏は、この土地を重視し、南北朝内乱期の実義の時代に、風早を含む「三津(みつ)村」を支配し、延文5年(1360年)には、幕府から「三津村地頭職」を預けられています。

以後、風早・三津・木谷の「三津村」は、小早川氏の当主が支配する重要な外港として機能していきます。

これに対し、浄福寺の宝篋印塔は、基礎の比率や特徴から、小早川氏がこの土地を支配する以前の14世紀前半の造立と考えられます。

この比定が正しければ、造立者は、小早川氏ではありません。

それでは、いったい誰が、この大きな宝篋印塔を造立したのでしょうか。

いま注目しているのは、15世紀後半、小早川弘景が息子の弘平に書き残した置文(おきぶみ/現在、および将来にわたって守るべきことを記した文書)のなかに、「内の者」(小早川家臣)として登場する「風早」氏の存在です。

弘景によると、風早氏は、「内の者」の筆頭にいた手島衆につぐ格式をもつ家臣として位置づけられています。

しかも、本来は、風早氏のほうが格上だとも言っています。

ところが、手島衆のほうが小早川家に長年忠勤を励み、さきに家来になったことから、家臣団の序列では、手島衆のほうが上になったというのです。

このため弘景は、風早氏にも配慮して、日頃は、風早のほうが手島より上なのだと皆に言い聞かせていました。

小早川氏にとって、風早の地をおさえる風早氏は、それだけ重要な武士団だったのでしょう。

小早川家の正月儀礼を記した文書にも、小早川一族の梨子羽・草井・小梨子・木谷に続いて、「風早式部」の名が登場します。

おそらく、ある時期に婚姻関係が結ばれて、一族としての扱いをうけるようになったのでしょう。

風早氏については、史料も少なくわからないことも多いのですが、古くからの風待ちの港であった風早に拠点を置き、瀬戸内海水運の一翼を担うことで、発展してきた海の武士団だったようです。

さきほどの置文によると、風早氏は、風早の西側に隣接する安浦の武士団と推察される「内海衆」(うちのうみしゅう)の一族でもありました。

両者は、連携して、このあたりの海のルートを支配していたのでしょう。

それが、小早川氏の勢力拡大のなかで家臣団に編成され、港と海を支配する武士団として、家臣団のなかでも高い地位を獲得したようです。

こうした点から推察すると、この宝篋印塔は、風早氏が先祖供養と一族の結束を固めるために造立したものなのかもしれません。

そうだとしたら、これほどの宝篋印塔を立てた風早衆の財力も、あなどれません。

ただし、この宝篋印塔の基礎の上部は、反花を略したくり型をしています。
あるいは、このあたりで制作費を安く抑えているのかもしれません。


いま宝篋印塔が立つ前面には、瀬戸内の海が広がり、牡蠣の養殖がさかんにおこなわれています。

この海に乗り出していった風早衆とは、どのような人々だったのでしょうか。

その実態の解明も、これからの課題です。

なお、写真は、浄福寺からみた三津湾の風景です。
筏のようなものが見えますが、これが牡蠣の養殖場です。

正面に大きくよこたわる島は、大崎上島(おおさきかみしま)になります。

この島には、まだ足を踏み入れていませんが、中世は、この島も小早川領でした。

このため、いずれ島にも渡りたいと思っています。





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最終更新日  2005.10.02 17:18:45
[竹原市・東広島市 石塔] カテゴリの最新記事



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