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テーマ:石塔を旅する(10)
カテゴリ:三原市 石塔
白滝山の頂上直下にある龍泉寺には、宝篋印塔や五輪塔の残欠が散在しています。 その内訳は、およそ以下のようになります。 参道周辺 五輪塔 空風輪1 本堂周辺 宝篋印塔 相輪1 五輪塔 空風輪1 歴代住職の墓地周辺 宝篋印塔 基礎3 笠2 相輪1 五輪塔 地輪4 水輪2 火輪17 空風輪3 一石五輪塔7 その後、Oさんから、本堂周辺でさらに残欠を見つけたとの情報をいただきました。 このため、全体の数は、もう少し増えそうですが、これまでのところは、宝篋印塔は、少なくとも3基、五輪塔は17基の存在を確認できました。 多くの残欠は、いま本堂の少し上にある歴代住職の墓地に集められています。 その一画に、ひときわ高く、基壇を石垣で固めた1基の宝篋印塔が立っています。 一見、完備した宝篋印塔のように見えますが、近づいて見ると、大きな宝篋印塔の基礎Aの上に、別の宝篋印塔の基礎Bをのせ、さらに宝篋印塔の笠、相輪を積み重ねた、寄せ集めの石塔であることがわかります(写真左下)。 一番下の基礎Aの背面には、「応安八年乙卯」「四月十九日」の年月日が二行にわけて陰刻されています(写真右上)。 写真ではわかりにくいかもしれませんが、「八」の字は読めるかと思います。 その意味では、年次を刻む貴重な基礎になります。 ところが、ひとつ問題があります。 それは、北朝の元号であった応安8年(1375)は、2月27日に「永和」に改元されているため、4月19日は「永和元年」でなければならないのです。 改元から、およそ1ヶ月半。 時代は、南北朝内乱の時代です。 なんらかの事情で、改元の通達が遅れていたのかもしれません。 あるいは、北朝方の小早川氏のもとには通達が届いていたものの、石工への通達が遅れていたのかもしれません。 また、あらかじめ銘の日にちが決まっており(たとえば忌日など)、改元の通達が届く前に、彫られてしまったとも考えられます。 しかし、後世の人が、改元を知らずに、なんらかの日にちを刻んでしまった可能性も捨てきれません。 そうなると、ここに刻まれた年次を、そのまま石塔の制作年代に比定するわけにはいかなくなります。 そこで、一度この年次から離れて、基礎そのものが14世紀後半の特徴を備えているのか、あらためて検討することにしましょう。 まずは、基礎のアップです。 素材は、花崗岩によって造られています。 幅は、47.3センチ、全体の高さは、31.7センチ、側面の高さは、23.8センチあり、小早川領内では、比較的、大きな基礎です。 側面の輪郭幅は、上部3.5センチ、左5.5センチ、下部3.7センチになります。 なお、正面は、欠損部分があるため、左側面を計測しています。 格狭間は、3面にあり、正面は、東側(画面右方向)を向いています。 この数値を基にした、各部の比率は、全体の高さと幅の比率は0.67、側面の縦横比率は0.50、側面にある上下の輪郭幅の比率は1.06、上の輪郭と左の輪郭の幅の比率は1.57、基礎幅と横の輪郭幅の比率は0.12となります。 この数値は、いずれも14世紀の基礎の比率に該当します。 つぎに、基礎の格狭間を見てみましょう。 その形は、花頭形がゆるやかな傾斜で、左右に開くタイプ(B型)になります。 左右にある円弧は端によっていますが、花頭形の長さより、二つの円弧の幅のほうが、長くなっています(両者の比率は0.94)。 このことは、この基礎が14世紀の後半の基礎であることを示唆しています。 また、脚は、茨の内側で切り、脚間の幅と輪郭の下端幅の比率は0.3(1/3弱)になります。 これは、安芸東部や備後では、南北長期に一般化する大きさです。 また、基礎上部の反花も、2.2センチほど入り込んで彫られています。 こうした点から考えると、この基礎は、14世紀後半、おそらく銘にある「応安八年」の基礎とみなして、問題はないでしょう。 広島県内でも、数少ない年号銘をもつ基礎であり、年代を判定するための基準塔になります。 その意味でも、本来の塔身や笠・相輪を欠損していることが、たいへん残念です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.11.03 18:28:37
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