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中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

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2006.02.09
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踏切を渡って、小早川家の御館跡とみられる本郷小学校の敷地にむかいましょう。

写真からもわかるように、小学校は、道路よりも、少し高い位置にあります。


本郷小学校



大正末年頃の地籍図によると、小学校の前面(南側)には、細長い水田と畑が並行している様子が読み取れます。

館の前面には、堀と土塁が築かれていたのでしょう。



本郷小学校の敷地の全景です。

本郷小学校



前方にある建物が校舎、その後方に高山城、校舎の右手(東側)にある建物は、体育館です。

体育館の後方に、木が茂った丘がみえますが、ここには具住(ぐじゅう)神社が鎮座しています。

文政2年の「国郡志御用ニ付下調書出帳」によれば、具住神社は「土井東」にあると明記されています。

この点から、本郷小学校の敷地が「土居」(土井)に相当するとみて間違いないでしょう。



地籍図によると、撮影地点から具住神社の丘まで、校庭を斜めに横切るように参道が続いています。

1枚目の写真に見える小学校にはいる道は、参道の入口のようです。

その手前、右側のY氏宅の前には、灯籠も設置されていたといいます。

具住神社は、慶長年間に土肥谷からこの場所に移されたと伝えられますから(明治35年由緒書)、この参道も、そのときに造られたものでしょう。

神社の講は、小学校の周辺に住むおよそ13軒によって構成されていますが、かつては、本郷町の町のほうからも、お詣りにきたそうです。

大正末年頃は、この参道の両脇に、畑(一部水田)が広がっていました。

さらにそれ以前、室町・戦国時代の頃は、ここに小早川家の屋敷が建ち並んでいたのでしょう。


当時の有力な武家の屋敷は、京都の足利将軍邸をモデルにつくられていました。

その構成は、正門をはいると、広い空間があり、その奥に、儀式などを執り行う主殿を中心とした屋敷群、その奥に主人が住む日常の屋敷群が建ち並ぶというものでした。

小早川家は、幕府奉公衆の家柄ですから、その屋敷も将軍邸をモデルにしてつくられていたのでしょう。

敷地(堀跡を含む)の大きさは、地籍図から測定すると、東西約90メートル、南北約120メートルほどになります。



具住神社に、もう少し近づいてみましょう。


本郷小学校



体育館のすぐ後方、具住神社の丘のすぐ下にも、石垣で固めた平壇があります。

以前は、ここに民家が建っていましたが、もともとは、具住神社の丘とあわせて、館を防御するための上下二段の郭が設けられていたのでしょう。



具住神社は、この小学校の敷地の脇から、のぼっていきます。


具住神社



いまは、小さなお堂があるだけですが、宝篋印塔を礎石に転用しています。

このあたりは、調査が不十分なため、あらためて歩いてみたいと考えています。



なお、小学校の敷地内の調査は、本郷町教育委員会の許可を得て、元本郷小学校の校長先生にもご同行いただいて実施しています。

また、小早川家の御館跡に関しては、「石塔と景観の語る中世ー安芸国小早川領を行く3」(『専修史学』34号、2003年)のなかでも詳しく紹介しています。

関心のあるかたは、参考にしてください





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最終更新日  2006.02.10 11:53:55
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