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テーマ:旅のあれこれ(10281)
カテゴリ:沼田・小早川家領の原風景
踏切を渡って、小早川家の御館跡とみられる本郷小学校の敷地にむかいましょう。 写真からもわかるように、小学校は、道路よりも、少し高い位置にあります。 大正末年頃の地籍図によると、小学校の前面(南側)には、細長い水田と畑が並行している様子が読み取れます。 館の前面には、堀と土塁が築かれていたのでしょう。 前方にある建物が校舎、その後方に高山城、校舎の右手(東側)にある建物は、体育館です。 体育館の後方に、木が茂った丘がみえますが、ここには具住(ぐじゅう)神社が鎮座しています。 文政2年の「国郡志御用ニ付下調書出帳」によれば、具住神社は「土井東」にあると明記されています。 この点から、本郷小学校の敷地が「土居」(土井)に相当するとみて間違いないでしょう。 地籍図によると、撮影地点から具住神社の丘まで、校庭を斜めに横切るように参道が続いています。 1枚目の写真に見える小学校にはいる道は、参道の入口のようです。 その手前、右側のY氏宅の前には、灯籠も設置されていたといいます。 具住神社は、慶長年間に土肥谷からこの場所に移されたと伝えられますから(明治35年由緒書)、この参道も、そのときに造られたものでしょう。 神社の講は、小学校の周辺に住むおよそ13軒によって構成されていますが、かつては、本郷町の町のほうからも、お詣りにきたそうです。 大正末年頃は、この参道の両脇に、畑(一部水田)が広がっていました。 さらにそれ以前、室町・戦国時代の頃は、ここに小早川家の屋敷が建ち並んでいたのでしょう。 当時の有力な武家の屋敷は、京都の足利将軍邸をモデルにつくられていました。 その構成は、正門をはいると、広い空間があり、その奥に、儀式などを執り行う主殿を中心とした屋敷群、その奥に主人が住む日常の屋敷群が建ち並ぶというものでした。 小早川家は、幕府奉公衆の家柄ですから、その屋敷も将軍邸をモデルにしてつくられていたのでしょう。 敷地(堀跡を含む)の大きさは、地籍図から測定すると、東西約90メートル、南北約120メートルほどになります。 具住神社に、もう少し近づいてみましょう。 体育館のすぐ後方、具住神社の丘のすぐ下にも、石垣で固めた平壇があります。 以前は、ここに民家が建っていましたが、もともとは、具住神社の丘とあわせて、館を防御するための上下二段の郭が設けられていたのでしょう。 具住神社は、この小学校の敷地の脇から、のぼっていきます。 いまは、小さなお堂があるだけですが、宝篋印塔を礎石に転用しています。 このあたりは、調査が不十分なため、あらためて歩いてみたいと考えています。 なお、小学校の敷地内の調査は、本郷町教育委員会の許可を得て、元本郷小学校の校長先生にもご同行いただいて実施しています。 また、小早川家の御館跡に関しては、「石塔と景観の語る中世ー安芸国小早川領を行く3」(『専修史学』34号、2003年)のなかでも詳しく紹介しています。 関心のあるかたは、参考にしてください お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.02.10 11:53:55
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