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中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

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2007.07.01
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カテゴリ:竹原市の石塔



かつて竹原小早川氏の城がある新庄から、港のある三津(みつ・安芸津)に向かうには、東野の在屋(ありや)から峠を越えて木谷(きだに)におりるルートが使われました。

しかし、ルートはひとつではなかったようです。

少し遠回りになりますが、もうひとつ、仁賀の西谷に出て、戸石(といし)、正司畑(しょうじばた)をへて、三津の印内(いんない)にぬけるルートがありました。

現在は、戸石から岩伏を経由して印内に抜ける自動車道路が整備されていますが、この道路は、明治29年生まれのSさんが村長を務めたときに、仁賀と三津の人たちによって拡張・整備されたもので、それまでは、正司畑を経由して三津に歩いて買い物に出ていたそうです(『ふるさと仁賀』26頁)

このルートは、三津のなかでは比較的規模の大きい印内の城(いまは松尾城と呼ばれていますが、本来の名前はわかりません)の東側に抜けることから、港へ抜けるもうひとつの道として重視されていたのでしょう。



そのルート上に位置する戸石の村はずれ(字「上大谷」)の田んぼの縁のところに、いま多くの五輪塔が寄せ集められています。




戸石





多くは崩れていますが、その数は、空風輪6、火輪8、水輪5、地輪3となり、少なくとも8基の五輪塔が存在したようです。





戸石の五輪塔群





しかし、いずれも粗い花崗岩で作られ、摩滅も激しく、石の質はよくありません。

形からみて、いずれも戦国時代から近世初頭の五輪塔でしょう。

このほか、自然石の墓石が2基、石仏が1基あり、墓所としても使用されていたようです。





戸石





田んぼが拡大されていくなかで、ポツンとここだけ残されているところからすると、古くから五輪塔はこの場所に祀られていたのでしょう。





戸石 戸石





火輪の軒幅は、それぞれ、21.47センチ、22.00センチ、22.17センチ、22.17センチ、23.16センチ、24.63センチ、25.01センチとなり、それほど大きなものではありません。

このうち、小型ながら19.13センチの火輪がこのなかでは、もっとも古そうです。





戸石 420





また下の写真に写る空風輪は、上記の火輪よりも時代がさかのぼりそうです。





戸石





このほかの火輪は、いずれも新しいもので、一番大きな火輪は、軒の下端が水平を作り、両端の反りがきついことからみて、古くても慶長期、おそらく近世初頭のものでょう。

つまり、古いものは小型ながら、このなかでは比較的質がよく、時代が下ると大きくはなりますが、質は低下する傾向がみられます。

質を落しても、大きなものを作りたいという願いが込められているようです。
その大きさなどから見て、造主は、戸石の土豪クラスが想定できます。





戸石 421

火輪幅 25.01センチ




戸石 422

火輪幅 24.63センチ




戸石 423

火輪幅 23.16センチ




戸石 424

火輪幅 22.00センチ




戸石 425

火輪幅 22.17センチ




戸石 426

火輪幅 22.17センチ




戸石 427

火輪幅 21.47センチ





五輪塔のある場所に立って正面(東北東)をみると、500メートルほど先に小高い丘がみえますが(トップ写真参照・赤い屋根の右上)、平たくなっている部分には、かつて寺があったそうです。

また、五輪塔群からの160メートルほどのところにあるSさんのお宅の隣には、かつてお宮があり、いまも前方の田を「ミヤダ」とよぶそうです。

このほか、五輪塔の南側にある山の反対側の谷筋は、ジョウボウダニ(丈房谷)といい、焼き場もあったそうです。

東野にある賀茂神社も、戸石に最初は祀られていたという伝説もあり、ここ戸石には、いまも中世の面影が残されているようです。



戦国時代の戸石村については、古文書からも確認できます。

天文17年(1548)12月26日の荒谷に宛てた竹原小早川家の奉行人某慶俊の安堵状に、「西村莵石・大谷土貢の事、壱貫五百文、四季納所棟別七百文臨時共に、足子一円、惣夫銭臨時共に、其外何も切岩様御判形の辻を以て前々の如く知行肝要たるべきの由候」とあり、戸石と大谷には、上仁賀の荒谷(あらたに)氏の領地がありました。

また、年未詳月日付けの荒谷大蔵入道に宛てた小早川弘平(興景父)書状によると、「といし・大谷人足の事」とあり、人足や小早川家の新年を飾る「正月の松・かし(樫カ)」を負担していました。



この荒谷氏は、小早川弘景が弘平に宛てた置文(15世紀後半)に「弘景の時、出候足洗(あしあらい)も、荒谷などはあべ共に同前にて候」と記される竹原小早川家の家臣です。

ここに記される「足洗」とは、「人の足を洗うような、家臣のなかではいやしい身分」(『中世政治社会思想・上』岩波書店)をさすようですから、荒谷も、はじめは足洗クラスの家臣として、弘景に出仕したようです。

荒谷と併記される「あべ」は、よくわかりませんが、置文では、「あべなどは家もさしてなきものにて候」とも記され、「若衆なみ」の扱いをうけているところからすると、同じく下級家臣として出仕したのでしょう。

なお、『中世政治社会思想・上』(岩波書店)は、この「あべ」について、「竹原市新庄の字に安倍がある。この地を根拠とした家臣か」と記しますが、新庄に安倍の字はありません。


ここで紹介した戸石の五輪塔の造主と推察される土豪は、もしかしたらこの荒谷氏に仕えていたのかもしれません。











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最終更新日  2007.07.01 22:24:59
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