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……それからの一週間は、それこそ馬車馬のように働いた。 子どもたちがいなくなっても、ふたり分のお弁当作りだけは続けていた(東京ではれいの「買い占め」騒ぎでコンビニの商品が軒並み品薄となり、お弁当やパン、カップ麺などはしばらく入荷されていなかった)が、夫と2人で食卓を囲むことはなかった。 夜は会社の自席でチョコレートを囓りながら終電まで働き、ビールを飲むために寄り道することもなく家に帰って死んだように眠り、朝はラッシュに巻き込まれないために早くから家を出た(午後十一時を過ぎるとさすがに自転車では帰り道が怖かった)。 後顧の憂いなく仕事に邁進したこの一週間がなかったら、本は仕上がっていなかったと思う。 残業中の職場に、母から緊迫した声で電話がかかってきたことがあった。 治ったと思った長女の風邪がぶり返し、熱にうなされて暴れているという。 あいにくその日、父は残業で帰りが遅く、残りの2人を入浴させたいのに長女からは片時も目が離せないらしい。 ……子どもの症状がどの程度差し迫ったものなのか、普段からその子を見ていなければわかるはずもないし、もし(差し迫っていないと)わかったとしても、全身で甘えてくるものを突き放すことはできないだろう。 無理やり長女を電話口に出してもらい少しだけ話をしたが、離れている私にそれ以上何ができるわけもない。 もう大丈夫、と繰り返す娘と母の声を聞きながら、この「疎開」生活もそう長くは続かないかもしれない、とちらりと思った。 思えばこれはほんの始まりで、その後一週間のうちに次女も甥っ子も交替で熱を出し、しかもインフルエンザ判定まで出てしまったのだから、日中ひとりで3人を相手にする母が、精神的にも体力的にも参ってしまうのは時間の問題だった。 ……この間、夫も目に見えて生気を失っていく様子だった。 毎晩ひとりでつまみの延長のような食事を摂り、ぼんやりテレビのニュースを眺めながら缶ビールを何本でも飲む。 毎朝してくれるのが習慣だった洗濯も、子どもたちの洋服がないと1日おき、2日おきになり、朝は出勤時間ぎりぎりまで起きてこない。 この数か月、何度も早帰りや留守番を頼んでかなりの負担をかけていたと思っていたが、その生活はむしろ、夫にとっては活力源なのかもしれない。 子どもたちが家にいるから、帰ってくる意味がある。 同じように、仕事に行く意味もある、ということなのか? 原発は、爆発こそしなかったが収束の目途はまだ立たず、関東地方全域で新たに路地野菜だの水道水だのに基準値以上の放射性物質が検出されるなどの問題がおこっていた。 専門家は「ただちに健康被害はない」と繰り返し、発表される数値はまるで目くらましのように(と勘ぐりたくなるほど)めまぐるしく単位を変えていた。 それでも。 長引けば長引くほど。 いま、家族一緒に暮らしたい、という思いが募る。 年度も改まった4月3日。 子どもたちが東京に帰ってきた。新学期前の最終土日である。 私は震災時に出来上がった製品紹介のプレゼン会議でまだ休日出勤だったが、今度は姉が子どもたちを迎えに行って連れ帰ってくれた。 結局丸2週間もの間、松山でお世話になった。 ……おそらく我々は少しずつ、日常を取り戻すべきときに来ているのだろう。 まだまだそんな気にはなれそうもないけれど。 (とりあえず完。まだゆるゆる続く。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 3, 2011 11:33:37 AM
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