ライターデビューは週刊誌編集部への飛び込みから
あの当時、私には怖いものがなかったのだろうか?子供の頃から、とにかく書くことが好きだった。小学校の頃は、読書感想文コンクールで賞を獲ったり、小説まがいのものを書いて、先生に勝手に何かのコンテストに応募されたりもした。ま、その時は佳作で終わったが・・・。中学生あたりから、作詞家になりたいという夢を持った。このことはいずれ書くとして、大学は六大学のひとつの仏文科を受験した。滑り止めにもう1校。 結果、勉強不足で本命は受からなかった。滑り止めにするつもりの学校は、高熱が出てフラフラな状態での挑戦…ダメだった。一部で私は東京理科大に受かったと書かれているようだが、これは間違い。曾祖父の高野瀬宗則が、東京理科大(「東京物理学講習所」でスタート。後に「東京物理学校」となりやがて東京理科大へ)の創立トップメンバーなため、縁故で入れた、と勝手に思い込んでいた友人がいたらしい。大学に落ちて、浪人したいと父に頼んだが、女性の浪人生など、ほぼほぼいない時代で、許してはもらえなかった。「女性は25歳までに結婚し、専業主婦になるのが一般的」と言われた時代だ。仕方なく学校の先生が教えてくれた「アテネ・フランセ」へ通うことにした。そこで2年と少し、フランス人宅等でのバイトなども楽しみながら仏語を学んだ。でも…まさかの坂が待っていて、そこを転がり落ちた。学校で視聴覚室のエンジニアをしていた男性に魅かれてしまったのだ。彼はフランス語もペラペラで、とにかく大人に見え、憧れて交際が始まった。結婚を夢見ていたが私の親の反対で破れ(このことにもいずれ触れるが)、私は彼の職場である学校を去った。この世からいなくなりたいくらい辛い出来事だった。初めて一人旅に出た。父に頼み込んで、行かせてもらった。戻ってから、私は何とか自分を立て直そうとした。夢だった作詞家への道は、目指せないか?そうだ! 芸能プロダクションに入り、レコーディングの現場に行ければ、どうにかして道は開けるかもしれない。芸能月刊誌で調べて、大手のプロダクションに電話をした。「マネージャーをやりたいんですけれど…」女性のマネージャーはいらないと言われた。それでも諦めたくはなかった。とにかく必死だった。何故、そんなことができたのか。やはり恐いもの知らずだったとしか言いようがないが、次の日にプロダクション事務所に行って、勝手に鳴っている電話を取った。「はい。〇〇プロです。〇〇は現場に出ております。失礼ですがお名前を…」等。「キミ、電話の話し方が丁寧だね。声もいいし、とても感じがいい」3日めにそう言われ「女性歌手のマネージャーなら、ホテルの部屋も一緒で済むからいいかもね」との部長の判断で、採用が決まった。女性の歌い手に付き、テレビ局や、全国あちこちのイベント会場に行った。そんな生活が7~8か月続いたが、作詞家の道は見えてこない。やっぱり書きたい…マネージャーの仕事をやめ、週刊誌の記者を目指すことにした。雑誌の裏表紙には編集部の電話番号が載っている。またもや、受話器を取った。後で知ったのだが、電話には、たまたま早出をしていた編集長が出た。「あの、私、原稿を書きたいんですけど」これも後に本人から聞いたのだが、女性からの売り込みは初めてで、面白そうだと思ったらしい。「一度編集部に遊びにこない?」そう言って、近場の日時を指定した。小学館の女性セブン。それが私のライターデビューの場となった。続く