初恋の人
それは私が二十歳になった頃のことだったと思う。母は私の部屋にやってきてこう言った。「今日からここに泊まるから・・・。今までお父さんに尽くしてきたけれど、これ からの人生はあの人の為に生きたいの。」父と母はその日から家庭内別居を始めた。母はもう父と同じ部屋で過ごすのが嫌だったのだ。同じ家にいることさえも嫌だったに違いない。家柄が違いすぎるために、母には身を引いた人がいた。その人はたまたま私たちの住む所の近くにお店やビルを持っていたので、その人が経営するレストランや喫茶店に母に連れられて良く通った。勿論父とは行かない。母は真面目すぎる人だったので、浮気心は無かったけれど、その代わりかなり真剣だったのではないかと思う。勿論父と別れてその人と一緒になりたいとか言うことではなくて、父と家庭内別居の道を選んだという意味で。父は昔かなり遊んだ人で、母の真面目さと、世間知らずなところを利用したようなところがあったのかもしれない。隣に住む独り者の女の人がいて、父とは幼馴染的存在だった。母のことをお姉さんといって慕っては良くうちに来ていた。まだ私が6,7歳頃のことだった。母が兄と買い物に行っていて、父と私だけが家にいた。隣のその女の人が来て、父と小声で話していた。その感じが、他者の入り込めない2人の世界みたいなものがあった。幼いながらも私は良からぬものをその2人から感じ取った。勿論その年頃では男と女の関係なんて知る由もないけれど、大人になった時、父とあの隣の人は男女の関係が確かにあったのではないかと思った。母はそのことを初めから知っていたらしく、子供部屋の電気が消えてから良く父とその人のことで口論していた。後にその人が結婚を決めるとき、しきりに父に逢いに来ていた。父に何かを迫っているような態度だった。父は面倒くさそうに受け答えしていた。父はその人だけではなく近所でバーをやっていたママとも親しかった。母が、好きでも一緒になれなかった人を懐かしむのも無理はないと思っていた。その人は普通の人だったし、私たちをかわいがってくれたし、母にも親切だった。私が18になってその人のレストランに友達と行ったとき、「お母さんはね、私の初恋の人だったんですよ。」とにこやかに言った。私は嫌な気はしなかった。むしろこの人がお父さんだったら良かったのにと思ったし、その方がどれだけ母も幸せだったかと思う。その後母は偶然その人とばったり会って一緒に昼食を食べたという。その時この間あなたのお嬢さんが見えて、あなたの若い頃に瓜二つだったので、目を疑ったほどでしたと言ったそうだ。食事を終えた後、その人はこれから何処へ行こうかと言ったらしい。ホテル?それとも?母はあなたの奥さんを裏切ることは私には出来ないと言ったという。その人にしてみれば、勿論社交辞令もしくは軽いジョークのようなものだったのだろうけど・・・。そんな話まで母親が娘に言うのは耐え難いことだけれども、母があなたにしか話せないからと言うので、黙って聞いていた。何故その人と結婚しなかったのか?その人が大学を卒業して家業を継いだ頃、その人の実家に連れて行かれたという。立派な門構えの家で、使用人が何人もいたと言う。その時その人の母親から息子には親が決めた許婚がいるからと言われたらしい。その人が席をはずしている時に。だから母にしつこく付きまとっていた父との結婚を決意してしまったらしい。父が病気の両親を抱えて困り果てていたのが結婚の理由だと母は言った。その人は母にプロポーズしたけれど、父との結婚を決めたと母から聞いて、勿論振られたと思って、その人は母を諦めた。母は私が23歳で結婚するまでの3年間私の部屋で寝泊りしていた。私が仕事から帰ってくるとよくその人の話を私に聞かせた。もうその話をせずにはいられなかったのだろう。失ってしまったものを取り戻すことは出来ないけれど、せめて自分の中では、父とのけじめをつけて、その人に対して残りの人生を潔白で生きたかったのだろう。勿論それは母の勝手な想いであり、妄想みたいなものだけど、判らない訳ではなかった。その人は何不自由無い生活を送ってる人だし、家庭も平和そのものの様だった。私は余程その人に、母はあなたのお母様に許婚がいらっしゃると聞いて身を引いたんですよと言いたかったけれど、そんなことを今更言ったところで誰かが幸福になるわけじゃないので辞めたけど。父と母は相変わらず一階と二階に別れて住んでいる。父はあくまでも私にとってはどんな人でも血の繋がった存在だから、憎むことは出来ないし、私にとっては特ににひどいことをしたわけではない。父は父なりに今は随分反省していて、母の言いなりになっている。離婚した方がこの夫婦は良いのではないかと随分思ったこともあったけれど、今でも一緒にいてくれて良かったと思う。どんな形であっても。