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カテゴリ:旅先で撮った写真(国内)
久々昨夜から眠りが来なかったので、 眠気を待って起きていたら、朝になってしまった。 本を読んだりしながら、ぶろぐの整理をすることにした 今日は寝ないまま過ごそうか?どうしようかな? 1年にこんな日が2~3回ある あるがままに委ねよう・・・・・・・ 「伊藤若冲」 今年生誕300年だそうだ 東京美術館で4月から5月に展覧会を開催したら 待ち時間が4・5時間だったらしい 若冲展は十数年前に見ていたので、今回は行かなかった どうしてこんなに人気が出たのであろうか? 知る人ぞ知る画家だと思っていたが・・・ 余ほど広報がうまく行ったのであろう 若冲の絵は、彼以外描けない独特の画法である <<若冲の人となりについて簡単にネットから引用する>> (1716年3月1日 - 1800年10月27日)
江戸時代の絵師 別号、斗米庵(とべいあん、絵を米一斗と交換したから)。 八百屋や魚屋が軒を連ねる京の胃袋、錦小路の青物問屋通称「枡源」の長男として生を受ける。 問屋の仕事は小売ではなく、生産者や仲買・小売の商人に場所を提供し て販売させ、彼らの関係を調整しつつ 売場の使用料を徴収する流通業者である。 桝屋は多数の商人を管轄していたらしく、商人たちから場所代を取れば 十分な利益を上げることが出来たという 海の幸や山の幸に囲まれて過ごしたことは、若冲の原体験として、 後の作品に反映されている。22歳で父が没し家業を継ぐ。 若冲と親しかった京都相国寺の禅僧によると、 若冲は「人の楽しむところ一つも求むる所なく」と評されている。
彼には絵を描くことが人生の喜びの全てで、 芸事にも酒にも女遊びにも興味がなくこうした世間の雑事のみならず、 商売にもあまり関心がなかったらしい。
とにかく、頭の中は絵筆を握りたいという思いしかなかった。
彼は模写の為にどんどん各寺へ足を運んだ。寺院通いを続けるうち、 若冲は修行僧のように頭を剃り、肉食も避けて、 自ら「平安錦街居士」と称するようになる
ある時若冲は店を家人に任せて丹波の山奥に入り、 2年間も音信が途絶えてしまう 帰宅した彼は、1755年、39歳で弟に家督を譲って隠居する。 弟は兄をよく理解し、画業を経済面から支えた。 これ以後、若冲は四半世紀の間、ずっと作画に専念する。
1788年、72歳になった若冲を突然不運が襲う。 “天明の大火”だ。京を火の海にしたこの大火事で、 彼の家も画室も灰になり、焼け出されて大阪へ逃れた。
私財を失って生活は貧窮し、若冲は70の齢を過ぎて 初めて家計の為に絵を描くことになった。 大阪では西福寺の金地の襖に『仙人掌(サボテン)群鶏図襖』を描いた。
1790年(74歳)から最後の10年間は、 京都深草の石峯(せきほう)寺の門前に庵をむすんで隠棲した。 1792年(76歳)にずっと彼を援助してくれた弟が他界してから 画1枚を米一斗で売る暮らしを送るようになる 1800年、84歳の長寿で大往生する、生涯独身だった。 代表作 錦市場の玄関口にある「若冲」の絵 虚空は、この市場の絵を見て「若冲」の事を思い出し この市場の出身で有ることを、今年1月初めて知った その後の300年記念展で、2度驚いた 入り口にある説明文 錦市場 …新年で少し客の姿が少ない 新年用の野菜が並んでいた 錦市場を通り抜けると「錦天満宮」がある 新年で賑わっていた 天満宮の前を入ると「寺町」に行く 小路で見つけた、和食屋で「ランチ」を食べた 覚書 「西国巡礼」 白洲正子 「王妃の離婚」 佐藤賢一 「本をつんだ小舟」宮本輝 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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