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カテゴリ:テレビ・映画・ビデオ・観劇
このプロジェクトに共感し、私もささやかに協力したいと思います。
まずは、制作のためのクラウドファウンディングのお知らせから。 「じょっぱりー看護の人花田ミキ」命の尊さを綴る映画制作プロジェクト ‖看護の人 花田ミキさんの人生 戦争時代は従軍看護婦として戦場で負傷兵の看護にあたり、終戦後は青森県で、看護教育の基礎を築き上げるため青森県立高等看護学院(いまの青森県立保健大学)の立ち上げ、保健行政の立場から無保健婦町村の解消、僻地救護看護の確立に努めました。 映画では歴史の紹介に留まらず、花田さんが人生をかけて訴え続けた「戦争の悲惨さ、命の大切さ」を、いま現在の時代とリンクをさせながら伝えます。 「命を阻むものはすべて悪」という花田さんの想いと行動力を、いまの不安定な世界にこそ発信していきたいと考えています。 ■ 救護看護婦として戦争への3度の召集(1937~1943年) 花田ミキさんは、青森県弘前市生まれ。 青森弘前高等女学校(後の青森県立弘前中央)卒業後、盛岡赤十字看護婦養成所を経て、日本赤十字社青森県支部の看護婦となります。 日中戦争、太平洋戦争がはじまると、従軍看護婦として3回招集され、20代のほとんどを戦場で過ごしました。 多くの兵隊の死、治療をして動けるようになるとまた戦場に送られてしまう矛盾に「命を阻むものはすべて悪」との考えに至り、生涯にわたりその思いを実践に移しました。 ■ 「予防」のため保健婦の免許を取る(1943年) 結核のため戦場から帰還。1943年、看護教員と保健婦の資格を取得し、看護師が行う治療を中心とした業務だけではなく、保健師として病気やけがを未然に防ぐ「予防」に力を入れることを決意します。 またこの年に、八戸市の八戸赤十字病院の看護婦養成所で婦長に就任し、養成所の生徒の育成にあたります。 ■ 八戸空襲、海防艦稲木沈没(1945年) 八戸市の空襲では、海防艦稲木が八戸港蕪島沖で「八戸の盾」となって沈没。また、多くの死者を出しました。 花田ミキさんは養成所の生徒たちと、八戸赤十字病院の裏山にある防空壕で、負傷者の看護にあたりました。 ■ 青森県看護協会設立(1947年) 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の看護改革の一つである日本産婆看護婦保健婦協会設立に際して、日本産婆看護婦保健婦協会青森支部(現在の青森県看護協会)設立に着手。1947年に、発足します。 ■ ワクチンなき時代 ポリオとの戦い(1949年) 1949年6月8日、八戸市でポリオの集団感染がおこります。ワクチンがない時代、花田ミキは単身上京し、GHQのナースからオーストラリアで効果を上げた治療法「ケニー療法」の情報を得ます。 看護チームをつくり八戸赤十字病院でその療法を続けるとともに、新聞にその方法を掲載し人々に分かりやすく紹介しました。 ■ 女性初*の県庁の係長(1950年) 青森県庁に創設された衛生部看護係の係長として白羽の矢が立ち着任。女性初の係長でした。 住民を重視するあまり、県庁時代は上層部との摩擦も多かったそうです。 *出典元:木村恵美子,Ryder島崎玲子,小山敦代.被占領下における看護改革政策の青森県への波及.青森保健大紀要,2002,4(1),95-102,2002. (参照 2023-01-07) ■ 青森県立高等看護学院(現在の青森県立保健大学)が開校(1952年) 日本の看護教育がアメリカなどよりもはるかに遅れていることや、看護婦を社会的に専門職として認められていない状況を変えるため、看護教育施設の設立を目指します。 1951年に設立が認められ、翌1952年に青森県立高等看護学院(現在の青森県立保健大学)が開校することになりました。 しかし入学希望者はわずか1人。花田ミキは、高校をまわり、お手製のナイチンゲールの紙芝居などで看護教育の重要性を説きます。38人の生徒が集まり、無事に開校の日を迎えました。 ■ もったらころすな 全国最悪*の乳児死亡率の減少に挑む(1964年) 保健婦・助産婦団体による「もったらころすな運動」を展開。 1950年、青森県の乳児死亡者の割合は1,000人中95.5人と全国で最悪を記録。 10年後の1960年は1,000人中45.8人と減少したものの、それでも他の都道府県と比べても高い死亡率でした。(1960年に一番高い乳児死亡者の割合だったのは、青森県の隣にある岩手県でした。) 保健婦の地域密着の家庭訪問、早期に役場に届けを出した妊婦へさらしを配るなどして、乳幼児死亡率の改善に取り組みました。 ■ 保健婦の不在の町村をなくす「派遣保健婦制度」の確立(1965年) 青森県内の約半分の自治体では保健婦が不在でした。そこで、県立高等看護学院の卒業生を青森県職員として採用し、派遣することで保健婦不在の自治体をなくしました。 1971年には2人以上の保健婦が在勤する体制を確保します。 1973年、青森県庁退職後は、保険看護研究家として活動。また戦争体験を伝えるため戦中記録集『語り継ぎたい』(1994年)、戦争体験短歌集『燠なお消えず』(1997年)などを自費出版。 2006年、死去。本人の遺志に基づき、遺体は弘前大学医学部へ献体されました。 ‖花田ミキさんの人生からいまを考える機会に 花田ミキさんの教え子のみなさんから、いまだからこそ映画にして伝えて欲しいという声が届いています。 保健師です。原点を見失わないようにいたいと思います。人生をかけて戦争の悲惨さ、そして保健衛生の大切さを伝え続けた花田ミキ先生のことを映画にして下さる事に本当にうれしく心から応援しております。 ロシア・ウクライナ戦争はいつになったら終息するのでしょうか…ウクライナの人々のことを考えると心が痛みます。花田先生から戦争のない平和な暮らしがどんな尊いものか学びたいと思います。 映画の完成が今から待ち遠しいです。大先輩花田ミキ先生の生き様はコロナ禍の私たちにとって道しるべとなるのではないでしょうか。 花田先生の教え子です。色々な想い出があります。映画化されたら嬉しくて涙々で見れるかしら。成功を祈ります。 ‖2024年公開予定。公民館などでの上映をしていきたい 映画制作は、2023年春に撮影予定。その後編集作業などを経て、2024年に公開を予定しています。たくさんの人に、近くの会場で見てもらいたい ― そう願い、映画館だけではなく、学校や、都道府県や市町村のホール、公民館などでの上映も計画しています。 ■ 上映予定場所 ・小学校、中学校、高等学校、大学 ・各都道府県、市区町村ホール ・看護学校 ・公民館、図書館などの公共施設 ・全国映画館ロードショー 映画の制作には宣伝費を含めて約3,000万円が必要です。これまで約1,800万円の支援をいただいています。これから、残りの約1,200万円を皆さまからの寄付で集めさせていただく予定です。 第一目標は500万円とし、映画制作費と宣伝物制作費に充てさせていただきます。映画制作においては費用があればあるほど内容に工夫を凝らしたり、全国各地で上映するために宣伝を増やすことができます。 第二目標としては800万円を設定させていただき、音楽の充実化などをはかります。 また、第三目標をたてることができれば1,000万円を設定させていただき、全国への告知、宣伝活動をより拡大し、多くの方に映画のことを知ってもらえるようにします。 ●第一目標金額:500万円 ●資金使途:映画制作のための費用全般(機材費、出演料、スタッフ人件費) ●映画概要 ・劇映画 ・時間:90分 ・監督/脚本:五十嵐 匠 ・制作プロダクション:株式会社ストームピクチャーズ ・制作協力:かまくらさちこ株式会社 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年01月25日 08時42分24秒
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