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テーマ:エッセイ(94)
カテゴリ:過去のエッセイ
このブログを訪問してくださっている方、毎日過去のエッセイばかりで申し訳ありません。
私にとっては意味のあることなのですが、もう26年前のものなのでつまらないことでしょう。 本当にゴメンナサイ。 「センセイ」(47歳) 人間はたくさんの人と関わりを持ちながら生きている。だから、つきあう相手によって呼ばれ方も違ってくる。 私の場合、「みらい」「みらいちゃん」「〇〇(本名)」「○〇さん」「先輩」「奥さん」「◇◇君のお母さん」などなど。たまにではあるが、「山△(旧姓)のお嬢さん」「山△の孫さん」なんていうのも登場する。 私の旧姓は「山△」であり、曾祖父の代にこの地に住み着いたので、お年寄り世代にとっては「山△の孫・娘」になる。さらに「先生」と呼ばれるのは、若い頃に障害幼児の療育指導の仕事をしていたためである。 どの呼ばれ方が好みかといえば、やはり私自身を表現する「みらい」とそのバリエーションだが、その他の呼ばれ方も仕方がないことと割り切っている。 しかし、どうしても不快感を覚えるのは、最近「センセイ」と呼ばれる時だ。三年前から「主任児童委員」という民生児童委員の仲間入りをしてからのことである。 名称は偉そうだが、実際は公的ボランティアであり、何の権限も資格も無いに等しい。さらに、新しい制度によるものなので社会的認知度も低いから、学校や教育関係機関を訪問する時には、プリントゴッコ製の名刺を持参する。 すると、なぜか学校や教育関係者は私を「センセイ」と呼ぶのである。(それも役職が上になるにつれてその傾向が強い)。 「教育者ではないので『センセイ』は勘弁してください」と頼むのだが、どうも「センセイ」が口癖になっているようで、改めてくれない。 学校などとの付き合いが深まるにつれて、私の「先生」への失望感は深まるばかり。責任回避、熱意や子ども達への共感性の薄さ、慇懃無礼な言葉の裏の素人軽視…、などなど。 (そんなアンタにセンセイとは呼ばれたくない!)と、心の中で毒づくこともしばしばである。 というわけで、「センセイ」だけは返上したい敬称である。 この当時は、まだパソコンを使っていなかったようで、名刺もプリントゴッコだったんだなと懐かしい。 私は仕事をしている時も、プリントゴッコ製の名刺を作っていた。 原稿はワープロで作っていたと思うし、これらのエッセイの下書きもワープロだった。 このエッセイの講評には、「前半と後半も面白いので、もったいない」と書かれていた。 どちらかのテーマに絞って書き込んだ方が良いようなことだったが、私はテーマの「先生」を書くために前半を書いたつもりだったから、(まあ、仕方ないよね)と感じたような気がする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年03月06日 14時13分38秒
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