もう、社会福祉協議会(通称「社協」)を退職して30年以上も経っている。
当時の職場の人達も現職で働く人はいなくなったし、
ここで少し具体的に書いても、個人情報に触れたり個人を特定しようとする人もいないだろうから、当時のことの思い出も書いてもいいかと思う。
先日、一緒に息子のブドウ畑に行ってランチをしたのは、その頃の仲間である。
彼女は先天性の二分脊椎症として生まれたため、幼い頃から手術などを繰り返し、入退院を繰り返しながら育ったようだ。
「長生きはできない」と言われたらしいが、私が出会った頃の20代の彼女は、
松葉杖を使いながら小中高とも一般の学校で学び、
中学時代から習い始めたピアノをもっと学びたいと、本州の音楽系短大を卒業し、
ピアノ教室を開こうとしている頃だった。
その頃の私の仕事は、『ノーマライゼーション及びソーシャル・インクルージョン』の普及啓発と、障がい者の社会参加や福祉に関わるボランティアや青少年の育成を目指す事業としての「ふれあい広場」に取り組んでいた。
まあ、現在でもこんな風に書いても何のことやらわからない人が多いだろうが、
わけがわからない私が事業の企画や実行をしなくてはならない。
何でこんなカタカナ言葉を羅列して「啓発事業」をしなくてはならないのかと頭を抱えてしまった。
それでも、私の前職は「障害幼児の機能訓練」の指導員だった。
だから、この様々なハンディを持つ子ども達と家族の取り巻く環境が、どれほど偏見に満ちていて生きづらい社会であるかということは身に染みていた。
この子たちが将来、少しでも多くの人達に支えられ守られて生きてゆく社会をつくるためには、
障害者への偏見や不都合な社会を変えていかなくてはならないことはわかっていた。
だから、この仕事が「老若男女、障害の有無にかかわらず生きてゆける社会づくり運動」なのだと思うと、これこそが私のやりたいことだと思えたのだ。
しかし、当時の当市の社会福祉協議会の活動に関わる人たちの中に、障碍当事者は勿論のこと、若者たちもほとんどいなかった。
民生児童委員、老人クラブ、日赤奉仕団、遺族会、障害者団体はあったけれどそれは傷痍軍人の人達が主要メンバーだった。
当時の全国社協は、ノーマライゼーションの理念の啓発普及に力を入れていたので、道社協の指定を受けて道内各市で「ふれあい広場事業」を開いていたのだが、私達の社協はそれを担当する職員が少ないということで、私が社協で仕事をすることになって1年も経たずにそれを引き受けなくてはならないことになっていた。
つまり、とにかく職員が少ないのに事務仕事が沢山あって、障がい者についてもほとんど知識のない職員ばかりだったのだ。
その中に、多少は障がい者の知識があると思われる私が入ったので、当然その担当は私になった。
「みらいさん、この事業もう断れなくてやらなくちゃならないんだよ。何とかやってくれ」と、当時の事務局長に言われたのは、多分1月か2月。
事業は次の年度に完了しなくてはならないという。
事業の企画や実行は私は経験がないので、本当にどうなることかと不安だったけれど、それを断っては自分がここに勤めた意味がない。
ということで、道内各地で開催された「ふれあい事業」の報告書などを読み比べ、予算がつく一年だけではなく次の活動につながるための取り組みを考えた。
必須なのは、若い人たちが主役になるような取り組みだ。
ということで、各福祉課系団体、ボランティア団体、福祉施設の職員などへ、「ふれあい広場事業」の実行委員として、若い人を推薦してもらうことが最初の仕事だった。
その後、まあ色々とあったけれど、障害当事者、障害児親の会、福祉施設、障害者団体から、会長などの年長者ではなく、若い人に集まってもらえたのは本当にありがたかった。
同時に、市内にある二つの高校に、「ふれあい広場のボランティアとして参加してほしい」と依頼した。
実行委員会を発足する前に、その準備委員会としてこれらの若い人たちに集まってもらい、ノーマライゼーションのことや、この事業でやりたいことを理解してもらうことにした。
コアになる人が、その願いをちゃんと理解していなくては、やはり単年度限りのものになりそうだったからだ。
その会議の中で、私は何度も特に福祉施設の職員に話した。
「この町で、障害を持つ人達への偏見が少しでも無くなり、障害者施設が地域に根差したものになるために、自分がやりたいと思う企画を考えてほしい」と。
しかし、そのたびに私は彼らから言われた。
「みらいさんは、どのような企画ならいいと思うのですか? 道社協の指定事業なら、マニュアルもあるでしょう?」
「私は、マニュアルではなくて、皆さんがこの町で今やりたいことがやりたいのです。
できれば、今年だけではなくて、来年も続けていける活動に取り組みたい」。
もちろん、ヒントとしては各地のふれあい広場での取り組みの内容も伝えたはずだ。
このやりとりは何度も続いたけれど、それでもやっとそれぞれからやってみたいことが出てきて、ふれあい事業の骨格ができた時に、やっと実行委員会を開くことができた。
実行委員会にはできるだけ幅広い市民に参加してほしいと思ったので、市内の考えられるすべての団体に案内を送った。
日赤奉仕団関係、女性団体、老人クラブや遺族会、商工会や学校やPTAなど、当時社協が把握している団体全てである。
やっと実行委員会が発足したのは、多分秋になろうとする頃だった。
それまでの間、道社協からは何度も電話があり、「説明に行きましょうか?」「年内に開催できますか?」などと心配されたが、私は「絶対に道社協のお仕着せ事業にはしたくない」と考えていたので、
「大丈夫です。自分たちでやることが大事だと思うので、メインイベントには見に来て下さい」などと、失礼を承知で助っ人を断り続けていた。
長くなってしまったが、その時に出会ったのが今回久しぶりに再会したEさんだった。
Eさんについては、また別の日にもう少し書くことにする。