実家の納屋の整理をしていたら、私の若い頃の資料や本などと一緒に、雑文や日記めいたポエムを書いていたノートが紛れていた。
私は若い頃のことはあま思い出したくない。
心の中は常にグチャグチャで、自分に対して自信もなく、もっと言えば未来が明るいとは思えなかった。
だから、そのノートも見ないで捨てようかと思ったのだが、とりあえず自宅でシュレッダーにかけようかと持ってきた。
昨日、おそるおそる開いてみたら、日記めいた詩が書かれていた。
こんなもの書いていたのだと思わず読んでみたら、これをそのまま捨てるのは惜しくなった。
もちろん、取るに足らないものも多いのだけれど、結構さまになっていたり、
大切なことを突いたものもある(ような気がする)。
何よりも、自分の現在の考え方の原点のようなものもあったので、ここに残しておくことにする。
「伝えることが出来たら」
みんながボクを指さして
気持ち悪そうにヒソヒソ話す
でもいいんだ 生まれた時からそうさ
慣れている
今日はこんなに良い天気
青空に風が歌っているよ
かあさん 泣かなくていいんだよ
自由にならぬこのからだでも
春の陽ざしは 感じられる
かあさんと一緒に このぬくもりを喜べたなら
ボクは 生まれて良かったと思えるよ
ああ でももう少し
この口が自由に動くことができて
ボクがこう思っていること
母さんに伝えることができたら
それができたら…
「生命(いのち)」
みんな思うだろうな
口もきけず 這うこともできず
自分で食べることも おしっこもできず
床にだらしなく転がるボクを見て
(何のために生きているのか…)って
でも考えてごらん
ボクには生きることしか残されていないのさ
自分で死ぬことだってできやしない
百パーセント 人の手によってしか生きるしかないボク
生きる重さは知っている
与えられたこの生命だ
無駄と思うにはもったいなさすぎる
みんながどんなふうに思ってもいいけど
生きるって悪くはないって
やっぱり ボク 思うんだよな
この二つの詩は、最初の仕事「心身障害児の療育指導員」の時のものだ。
書かれている「ボク」は、重度の脳性まひ児の気持ちを思いながら書いたのだろう。
ちゃんと題名がついていたから、ただの書き散らしではなさそうだ。
この子たちのことを書きながら、障害を持ち生きることの意味を探したのかもしれない。
あの子たち、今頃どうしているだろうか。
私達の生きる世界から、違う世界に行ってしまった可能性は高いけれど、
あの頃は本当にありがとう。