「アレクシエーヴィチとの対話」
アレクシエーヴィチとの対話「小さき人々」の声を求めて【著者】スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 著 , 鎌倉 英也 著 , 徐 京植 著 , 沼野 恭子 著【作品紹介】私は耳の作家、魂の歴史家です──。ジャーナリストとして初めてノーベル文学賞を受賞した作家の創作の道のりと極意を、NHK同行取材記録のほか、充実した講演・対談・評論によって明らかにする。「ドキュメンタリー文学」の手法とは何か。『戦争は女の顔をしていない』や『チェルノブイリの祈り』はいかに書かれたか。元々は「戦争は女の顔をしていない」を借りようと思ったのだが、こちらの方を借りることができたので読んだ。アレクシエーヴィッチは、ジャーナリストとして初めて2015年にノーベル文学賞を受賞したというが、当時の私はあまり関心を持っていなかったので、この本を読んで再認識だった。思うことは色々あるのだが、ロシアの人々の現在は、長いソ連時代の歴史の結果なのだとあらためて慄然とする。色々と引用したい言葉や、転載したい内容もあるし、私がその都度感じたことも書きたいけれど、とうてい纏められそうもない。図書館から借りた本なので返さなくてはならないが、これは書き留めておきたいと思う言葉を一つだけ書いておこう。「いつも戦争か、戦争の準備の中で生きてきた。私達はバリケードの文化の人間、死という文化の人間、苦悩の文化の人間。『ただ生きていく』ということができない。報いられなかった期待が攻撃性に変身して、『鉄の腕』が欲しくなった。また侵略攻撃というやり方で、屈辱から立ち直ろうとする」彼女は、「共産主義という赤いユートピアを目指した人類の実験」がどのような経過をたどって、それを「小さな人々」がどのように受け止め生きてきたのかを、その人々の言葉を拾い集めて明らかにしようとしている。共産主義というユートピアを目指したのは、全体主義、権力集中体制であり、その中では人々は自由に思いを語ることもできなかった。それでも人は生きていかなくてはならず、特に女性は命を産み育て、家族を守るために心を殺すようにして日々を暮らしてきた。だから、そのような「力もお金もない小さな人々」の本音の言葉を引き出すことは、どれほどの努力と忍耐の賜物だっただろうと思う。それでも、そのような時代と社会の中で生きていてもこのような人は生まれるのだ。そこに希望を見るような気がする一冊であった。それと、今日本で話題になっているカルト的な宗教と重ね合わせて読んでしまった。考えてみると、全体主義国家はカルトに近いようだ。(いや、カルトそのものかもしれない)そう考えると、明らかに一般的概念では間違っているとかおかしいとか思われることを無条件で支持する人々は、カルト信者と同じようなものだろう。ソ連時代を生き延びてきた小さな人々は、生きるために赤いユートピアを信じるカルト信者にならざるを得なかった。日本ではまだ、かろうじてかもしれないが自分の考えや意見を表現できる自由があるというのに、なぜか思考停止したように強い言葉の人を支持する人が増えているような気がする。これも、小さな人々が生き延びる戦略と言えるのだろうか。チェルノブイリの近くに住んでいたアレクシェ―ビッチは、福島の原発事故の後に、被災地を視察した際に、被災者から国の責任を追及する声が少ないとして「日本社会に抵抗という文化がない」と話している。「長い全体主義の歴史の中で、ロシアにも抵抗の文化がないけれど、日本では何故ないのか。何か日本の文化と関係があるのだろうか」と語っている。それを読んで、ふと「和をもって貴しとなす」という言葉が脳裏に浮かんだ。これは聖徳太子の言葉だから、とんでもない昔から日本人には親しまれてきた価値観だろう。この言葉が間違っているとは思わないが、それから派生する価値観には抵抗の文化は生まれないだろう。その後の日本の歴史の中には、古今東西どの民族にも共通するであろう権力闘争の中で苦しむ庶民はたくさんいたと思うが、幸か不幸か島国だったし農耕民族だったから、「和をもって貴しとなす」は大切な道徳だったと思う。経過は異なるが、アレクシェ―ビッチの生きてきた国と日本は、「抵抗の文化がない」のだろう。さて、私たちはこれからも、権力者に抵抗をせずに「長いものに巻かれ」「寄らば大樹の陰」で「付和雷同」してゆくのか。少なくても私はイヤだ。結果的には上記と似たような生き方をしているかもしれないが、ささやかでも日々抵抗を表明していきたいと思っている。