野中広務氏死去
<野中広務さん死去>孤独な闘士、最後まで貫く 毎日新聞1/26(金) 20:37配信 ◇評伝 午前6時に鳴った電話口から甲高い声が響いた。 「何や、この記事は。党があきらめても、政府は断念なんかしませんよ」1999年5月26日の毎日新聞朝刊1面トップは「国旗・国歌法案 政府・自民 今国会の提出断念」という“特ダネ”だった。目にした野中広務官房長官は番記者の私に「私は闘う」と宣言したのだ。 今では想像しにくいが、当時は自民党ですら国旗・国歌法制化に慎重論が強く、小渕恵三首相も2月に一度は国会で「当面法制化しない」と明言していた。 会期が大幅延長され約1カ月後、法案は衆院8割超、参院7割の賛成で成立。剛腕の面目躍如だった。 野中氏は在日朝鮮人、同和、沖縄、ハンセン病などの差別問題に熱心な強面ながら弱者に寄り添うリベラルのイメージだったので、「なぜ右寄りの法案に肩入れするのか」という疑問をしばしば耳にした。 だが、その不可解さこそ野中氏の真骨頂だった。法案は単純な2条構成。 国旗は、日章旗とする。 国歌は、君が代とする。 制定趣旨も歴史も、義務や罰則の規定もない徹底した実務本位である。野中氏は、教育行政の愛国ナショナリズムと教職員組合の反戦平和運動の板挟みになって高校校長が自殺した悲劇を繰り返させたくないと説いた。現場の混乱をなくすため思想対立を棚上げする発想だ。イデオロギーへの融通無碍(むげ)と言い換えてもいい。左派は信頼する野中氏なら警戒を緩める。右派は批判しづらい。右と見せて左、左かと見えたら実は右。戦後政治の左右対立を逆手に取り両方のバネを巧みに利用して、現実課題を片付けていく処理能力が野中政治の神髄だった。 法案成立が確実になった時、そんな解説記事を書いたら、野中氏は私をチラリとにらんでつぶやいたものだ。 「インテリさんは、好き勝手に書きよるな」 旧制中学卒業後、旧国鉄に勤務。敗戦の年の兵役経験が終生、反戦の原点となる。 25歳町議、33歳町長、41歳京都府議、53歳副知事。たたき上げの行政手腕、社共革新府政と和戦両様渡り合った議会経験により、57歳で国政に出た時にはベテランの実力を備えていた。 80年代後半、自民単独政権末期を牛耳った竹下派(経世会)で、派閥オーナーの竹下登元首相を後ろ盾に、北朝鮮外交で金丸信会長の信頼も勝ち得る絶妙の立ち位置で頭角を現す。 細川政権誕生で野党に回ると、当時政界最強だった小沢一郎氏に公然と対抗して自らも台頭。不祥事を暴いて政敵を次々倒す破壊力に加え、自社さ、自自、自自公から今に続く自公体制まで平成政治の激動をけん引した。小渕政権の官房長官が権勢の頂点だろう。 東西冷戦が終わり、左右の対立軸が消えた時代。日本政治も政界再編と国家指針を模索しながらバブル崩壊やテロ・大災害の対応に追われた。時代の特異な難題が野中氏の異能を求めた。連立政治の定着と国家危機管理に果たした功績は評価されるべきだ。 金融危機回避に必要なら野党案を丸のみし、銀行も潰す。敵と味方を大胆に入れ替える手法は「あざとい」と批判され、敵は多く孤独だったが、政治の術の可能性をあれほどまで追求した政治家は多くない。冷徹さの裏に情があり、政治が面白かった。 権勢は長くなかった。病に倒れた小渕氏の後継に森喜朗政権への禅譲を謀議した「密室の5人組」と指弾され、自民党幹事長に栄進しても影を引きずった。 下り坂への転機となった「加藤の乱」で加藤紘一元幹事長が自滅へ突き進んだのは、野中氏の影響下で首相になりたくない反抗期にも似た衝動があった。確かに野中氏は往年の「金丸・竹下・小沢」(略称・コンチクショウ)のようなキングメーカーを狙っていた。野中氏もまた権力のおごりを免れなかったのだ。 国旗・国歌法に野中政治の予見性を見る気がする。今日の政界総保守化を先取りしていた。自由投票だった旧民主党は、衆院本会議採決で賛否真っ二つに割れたトラウマを引きずり昨年、民進党分裂に至った。 野中氏が成立にこだわったのは、公明党政権入りを巡る小沢氏との主導権争いと、法案に慎重な同党に権力を担う覚悟を固めさせるためだった。公明党の政権参画が平成政治史の過半に及ぶ礎は野中氏が築き、端緒は国旗・国歌法だった。【編集委員・伊藤智永】野中広務氏死去 言葉の武闘派、気配りの人 1/27(土) 9:04配信 産経 先の大戦の悲惨さが再び繰り返されることのないよう、いつも心を砕いていた。 使用期限切れ後も米軍用地の暫定使用を認める駐留軍用地特別措置法の改正をめぐり、平成9年4月、衆院本会議の委員長報告でこんな発言をした。 「国会の審議が大政翼賛会のようにならないよう、若い方々にお願いしたい」 同法は、自民、旧新進両党などの賛成多数で衆院を通過した。戦中派としての矜持(きょうじ)がそうさせたのは疑いようがない。 かつて周辺に、自身の政治原点を聞かれ、「京都の体験が血肉になっている」と話したという。旧園部町議、同町長、京都府議、副知事と地方政治の階段を一段ずつのぼった。特に、野党として革新系の蜷川虎三知事と全面対決した府議時代の教訓は小さくない。 自著「私は闘う」(文芸春秋)でも、「野党経験は(略)、本当に役にたった」と認めており、実際、5年7月の衆院選で自民党が野党に転落すると府議時代の経験にものをいわせ存在感を発揮。党内外で認知を得た。 その政治手法には、「大きな敵」に捨て身で切り込む迫力があり、同時に、自身の存在感を高めていくしたたかさものぞいた。何よりも、ここぞというタイミングを見計らい、「言葉の武器」で政敵を攻め立てるセンスは圧巻だった。政治的な戦闘性の高さを評され、「武闘派」「豪腕」「狙撃手」など物騒な代名詞をつけられた一方、社会的弱者への視線を絶えず持ち、「義理人情に厚い」「気配りの人」と慕われもした。 これほどの人間像を周りに印象づけた政治家はそうおらず、だからこそ言うに尽くせぬ魅力を醸していた。(松本浩史)野中広務氏がお亡くなりになった。お年を考えたらやむをえないのだが、とても残念である。このような政治家はもういなくなってしまったのかもしれない。最近は、信念も気概も知性も教養も感じられない政治家ばかり目について、ガッカリすることばかりである。野中さん、どうぞあちらの世界から、後輩たちに活を入れてください。また、みどころのある政治家の背中を押してください。本当にお疲れさまでした。以前に野中氏の講演を聞いたときの感想をブログに書いていた。「12・8戦禍を語り継ぐ会」野中広務氏の話 2006年12月09日