テーマ:たわごと(26889)
カテゴリ:独り言
数年前に あたしは、「Real Emotion」という物語を考えた きっかけは、当時の彼氏とケンカしたからだったと記憶している あたしは疑問に思わなければ、ものを考えるようにはできていない だからその時も、やはり何かについて疑問に思ったに違いないのだ その時のあたしはご多分に漏れず、怒りという感情に支配されていたはずなのだが それから逃れ、ふと冷静になったとき あたしの中に、ある一つの疑問が浮かんだ なぜ自分の中に、複数の考え方を抱ける自分がいるのだろう そう その時まで負の感情に占拠されていたあたしの意識は この疑問を抱いた時点で それまでの自分から、別の自分に切り替わっていたのだ 感情の問題 そう考えるのが妥当ではあるが それにしても、その感情の軌道を瞬時に修正してしまう統合的な自分が 確かにあたしの中に存在する可能性に気付く瞬間でもあったのだ では あたしのリアルな感情は 一体どのあたしが司っているのだろうか・・・・・・・ そんな他愛のない疑問を妄想し あたしのなりの解釈と、あたしなりの脚色を加えた結果 物語の枠を与えられたのが、「Real Emotion」という一つの形である 当時、仲の良かった年下男性の友人から 同人ギャルゲームの原案を、暗に依頼されていたあたしは 即座に、このアイデアをテキスト化し、その友人に見せたのだが 誠に遺憾ながら、その友人には全く受け入れてもらえなかった 彼から告げられた理由は、単純なモノで 「難解すぎる」という言葉だった それに加えて 「萌え要素が少ない」という、ギャルゲームでは致命的な欠点を指摘されては さすがのあたしも引き下がざるを得なかったのは、今でも納得のいく流れとして捉えている しかし、まあ だからというわけではないが あたしの中でこの物語は、感情を拠り所にしないでも成立するあたしが 自分の中にいることを自覚させてくれたという意味で、非常に思い入れが深いモノであり また、そんなあたしが今なお、顕在化している自我の一部であることを考え合わせれば やはり、今のあたしを形成する一つの原点であることは疑いようもない こんな事実が指し示すものとは、つまるところ 冷静に客観的な論理を展開するときのあたしは 本来的には感情に支えられるであろう自分さえをも、冷徹に素材としての扱いに終始し 感情のない自分こそが 本来の自分であるかのごとく振る舞っているあたしを その時々で可能な限りの正解を導きうる存在として、ありがたがっているのだろう なぜなら 今、これを書いている自分も感情などカケラもなく ただ淡々とキーボードに指を走らせ 浮かんだ言葉を、モニター上に並べているだけに過ぎないからだ こんな自慰的な作業が気晴らしになってしまう自分に 少しだけ違和感を覚えもするが 楽しいのだから仕方ないだろう的なあたしが、このテキストの向こう側には、確実に存在し なおかつ端から見れば、微妙な笑みを浮かべ、悦に浸りながら 言葉遊びを楽しんでいる自分を愛おしく思うあたしも、ちゃんと存在しているのだから 案外これは、至極人間的なことではないかと アルコールに意識を委ねかけながらも、安堵を感じるあたしがいる あたしにとっての「Real Emotion」・・・ 今となってはもう 対外的な自分を維持するためだけには 発動しそうにないかもしれませんね・・・・・・・w お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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