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秋桜日記

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2007.07.01
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カテゴリ:童謡・童話
童謡の日(日本童謡協会制定)
今日は、童謡の日。1918(大正7)年7月1日に童話童謡雑誌「赤い鳥」が、児童文学者・鈴木三重吉により創刊されたことにちなんで、日本童謡協会が1984年に制定した記念日です。
「赤い鳥」は、それまでの堅苦しい“説話”や“唱歌”ではなく、子どもの言葉で子どもの世界を描いたわかりやすい童話・童謡の創作をめざしました。編集主幹の鈴木三重吉は、芥川龍之介、有島武郎、小川未明らの小説家に児童文学の筆をとらせる一方、北原白秋、西条八十、野口雨情らの詩への作曲を山田耕筰らに依頼し、今も親しまれている数多くの童謡を生み出していきました。
大正7年の童謡誕生から、昭和20年までに発表された童謡の中から、312編を集めた「日本童謡集」(岩波文庫)によると、大正の8年間に発表された作品は実に204編で、これは、昭和の20年間に発表された作品の約2倍にものぼります。大正時代はまさに童謡の興隆期であり、戦前の日本の童謡の代表的なものは、ほとんどこの時代につくられたといえるでしょう。
●大正年間の主な童謡の例
 かなりや(大正7) 西条八十作詞・成田為三作曲
 赤とんぼ(大正10) 三木露風作詞・山田耕筰作曲
 ゆりかごのうた(大正10) 北原白秋作詞・草川信作曲
 七つの子(大正12) 野口雨情作詞・本居長世作曲
 からたちの花(大正13) 北原白秋作詞・山田耕筰作曲

出典: 「YAMAHA」 HPより
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赤い鳥
赤い鳥(あかいとり)は1918年7月1日に鈴木三重吉が創刊した童話と童謡の児童雑誌。近代児童文学・児童音楽の創世期に最も重要な影響を与えた。1929年~1931年の間休刊があるものの三重吉の死(1936年)まで198冊刊行され続けた。
鈴木三重吉の目から見て低級で愚かな政府が主導する唱歌や説話に対し、子供の純性を育むための話・歌を創作し世に広める一大運動を宣言し『赤い鳥』を発刊した。創刊号には芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、徳田秋声らが賛同の意を表明した。表紙絵は清水良雄が描いた。
その後菊池寛、西条八十、谷崎潤一郎、三木露風らが作品を寄稿した。
この様な運動は誌名から「赤い鳥運動」と呼ばれるようになった。また、『金の船』(1919年、代表者:斎藤佐次郎)、『童話』(1920年、代表者:千葉省三)といった類似の児童雑誌が創刊された。
北原白秋は『赤い鳥』において自作の童謡の発表を行いながら、寄せられる投稿作品の選者として重要な役割を果たした。
1984年に日本童謡協会は『赤い鳥』が創刊された7月1日を「童謡の日」と定めた。
主な掲載作品
童話
「蜘蛛の糸」「杜子春」(芥川龍之介)
「一房の葡萄」(有島武郎)
「お馬」「ぽっぽのお手帳」(鈴木三重吉)
「ごん狐」(新美南吉)
童謡
「からたちの花」(北原白秋)
「かなりや」(西条八十)
評価
一流の文学者による作品は、児童文学全体のレベルを高めた。また、新美南吉をはじめとする次代の児童文学作家を発掘・育成したことも評価される。一方「童心主義」と呼ばれる方針は、作家の理想を子ども像に仮託したもので、実際の子どもの姿から遊離していたという批判も後になされた。また、寄稿を試みた宮沢賢治の作品を三重吉がまったく評価せず、掲載に至らなかった点も、本誌の限界と評されることがある。
漫画家やなせたかしはこども時代、家に蓄音機があり、クラシックレコードのほか、「青い目の人形」とか「かなりや」とか「赤い鳥運動」の頃の童謡が揃っていて、小さな時からそうした音楽に親しんだと述べている。(出典:讀賣新聞、2007年6月12日)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
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鈴木三重吉
鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年9月29日 - 1936年6月27日)は、広島県広島市出身の小説家・児童文学者。日本の児童文化運動の父とされる。
来歴
広島県広島市猿楽町(現、中区大手町)に父悦二、母ふさの三男として生まれる。広島市第一小学校、広島県立中学(現・広島国泰寺高校)から第三高等学校(現・京都大学教養部)を経て東京帝国大学文学部英文学科に入学。中学時代から文学に熱中し、映山という筆名で雑誌「少国民」「新声」等への投稿もした。中学二年の時には童話「あほう鳩」などが雑誌「少年倶楽部」に入選している。大学在籍中には、夏目漱石に自作品『千鳥』を送ったところ、推薦を得て雑誌「ホトトギス」に掲載され、以降漱石門下の一員として中心的な活動を行う。中学教師を務める傍ら、長編小説「桑の実」など数々の作品を執筆して小説家としての評価を上げたが、小説のゆきづまりを自覚し1915年以降小説の筆を折る。娘のために作品を創作したことをきっかけに児童文学作品を手掛けるようになった。
1918年、児童文芸誌『赤い鳥』を創刊、文壇の著名作家に執筆を依頼。芥川龍之介「蜘蛛の糸」や有島武郎「一房の葡萄」などの童話、北原白秋らの童謡、小山内薫、久保田万太郎らの児童劇など大正期児童文学関係の名作が本誌から誕生し、教訓色に塗り潰されていた従来の児童読み物が、芸術的にも高められていく気運を作り出した。1936年に三重吉が亡くなるまでの足かけ17年(196冊)刊行を続け、最盛期には発行部数3万部を超えたと言われる。しかも学校や地方の村の青年会などで買われたものが回し読みされたいう。この間、坪田譲治、新美南吉ら童話作家、巽聖歌ら童謡作家、成田為三、草川信ら童謡作曲家、清水良雄らの童画家も世に出した。また紙面に児童の投稿欄も設けられ三重吉や白秋、山本鼎が選評にあたり児童尊重の教育運動が高まっていた教育界に大きな反響を起こした。
三重吉の没とともに『赤い鳥』は廃刊となるが、13回忌にあたる1948年から「鈴木三重吉賞」が創設され、現在も全国の子供の優秀な作文や詩に賞が贈られている。
古事記を子供にもわかりやすいよう物語風に現代語化して「赤い鳥」に連載した『古事記物語』の作者としても知られる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

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清水良雄
清水良雄(しみずよしお、1891年8月4日 - 1954年1月29日)は童画画家。
東京都文京区本郷に生まれた。旧制京華中学校(現・京華高等学校)卒業。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科卒業。黒田清輝、藤島武二に師事する。在学中に文部省美術展覧会に入選。戦時中に広島県芦品郡戸手村(現・福山市)に疎開。終戦後も東京へは戻らず広島で没した。
大正の初め頃から挿絵の描いた。鈴木三重吉が創刊した童話雑誌「赤い鳥」の創刊号から挿絵を描いている。この他「コドモノクニ」でも多くの作品を見ることができる。
友人に京華中学校の同級生で日本美術家研究家の丸尾彰三郎がいた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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shimizu-yoshio-akaitori.jpg
挿画:清水良雄 (ほるぷ出版『「赤い鳥」童謡 第壱集』から)
出典:「d-score」HPより
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shimizu-yoshio.jpg
教育雑誌『銀の鈴』昭和24年7月号 (6学年)表紙原画  
「魚つり」 清水良雄 画 油彩/キャンバス  30×50 cm
同誌p17に、次のとおり作者による「表紙絵解説」あり。
「七月ともなれば、何はともあれ水にあこがれます。中でも魚とりは誰でも夢中になるものです。ここにいる二人は兄弟でしょうがめったに口をきかず、うきを見つめています。なんとかわいらしい真剣さでしょう。(清水良雄)」
出典:広島市立図書館 HPより

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かの先達たちが日本の子供の将来を願ってはじめたこの運動。90年の長きにわたり、語り継がれてきました。
しかし、現在でこの運動の「心」が急速に失われていると感じるのは、私だけでしょうか?

責任のない大きな声に、責任感のない担当者が屈する、、、教科書から童謡や童話が消えていくなど、その際たるものでしょう。。。美しい日本を目指すなら、まず、古きよき日本人の「心」を取り戻さなくてはなりません。
「相手をもてなす」「おもいやり」「気遣い」など、今では職場教育でしかお目にかからなくなってしまったこれらのフレーズ。もともとは、島国国家、日本人のDNAのなかに刷り込まれていたはずです。
どこに置き忘れてきちゃったのかな~





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最終更新日  2007.07.01 11:21:38
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