第二十九章●仙台東照宮遷座
秀吉の養子であった長兄秀宗が廃嫡され宇和島に移封後、新政府、徳川将軍家との強調路線で藩主となった次男伊達忠宗の悩みは深い。和賀義弘が亡くなり、息子の和賀義弘が、津多の養兄である茂庭良元を通じて仕官を申し出てきた。政宗が、その生涯に悔いを残した和賀陣。和賀一族の子孫は、粗末にしないという遺言が残った。晩年の政宗は、駿府に隠居した家康がそうであったように、久喜御鷹場御殿に君臨して、和賀一族を母にもつ末子の伊達宗勝や、孫の原田甲斐に鷹狩や能楽の手ほどきをして、宇和島藩の江戸藩邸から長男の秀宗を招き宇和島藩鷹匠組に鷹狩をさせるといったことを、平気でやった。そのツケを払うのは、新政府である徳川将軍家との強調路線によって二代藩主に就任した伊達忠宗である。伊達忠宗は、将軍家に遠慮があるとして、和賀義祐の仕官を却下した。徳川家光に願いでて、仙台東照宮の建立を許された。それだけなら、やむを得ないと、思う、津多であるが、まもなく徳川家光が亡くなり、予想もしないことが相次いでおきた。春日局の義理の孫で、徳川家光の側近であった佐倉藩主堀田正盛が家光に殉死したため、春日局の斡旋で佐倉藩に寄食していた長宗我部元親の甥、香宗我部貞親の子供、香宗我部親清が、忠次郎を頼って家臣たちとともに仙台藩に移り、忠宗の家臣である春日局の縁戚である河野道円の進言で、仙台藩士に登用された。徳川家光没で、大奥の女たち三千人あまりが、総額一万三千四両の退職金でリストラされ、江戸市中のブランド志向の豪商たちの愛妾などに再就職し、その一部が、仙台城下にも流れこんだ。世間は、由比正雪の乱で騒然とし、駿府の寺に、由比正雪に師事してあだ討ちを果たした宮城野信夫が暮らしているものだから、世間の耳目は、浪人問題に終始するが、津多は、その没後までも、大きな影響を与える春日局の存在に、驚くばかりだった。政治は,美濃にありと、亡き母が教えたものである。義経の烏帽子親であった、源平合戦の勝敗を左右した河野水軍、信長、秀吉、家康のちの天下人が揃って出陣した姉川合戦で、一族の男子のほとんどが勇猛果敢に戦い、討ち死にしたという河野の末裔、春日局の一族、美濃の稲葉一族。そして、美濃国土岐一族の、黒衣の宰相、天海上人。日光東照宮閥とでもいうべき一大派閥である。仙台東照宮の造営が開始された。津多の息子、原田甲斐宗輔、三十五歳。仙台東照宮の遷座式奉行をつとめる。徳川家康を祭る東北地方最大規模の祭り、仙台東照宮祭礼、仙台祭がはじまる。現在の「青葉まつり」である。山車は、坂上田村麻呂の鷹狩 竜宮城に乙姫 源義経 中国の故事にテーマを定めたものも多い藩主伊達忠宗、仙台東照宮参拝。伊達綱宗の従兄弟にあたる花町宮が、後西天皇として即位した。