6月24日水曜集会の慰安婦少女像
慰安婦騒動の韓国で、水曜集会を維持しようとする学生たちが慰安婦像と自身をひもでつないで連帯をアピールしている様子をライブ中継していたので見ていた。韓国語は分からないが雨の中で怒りを燃え立たせて、最近悪くなった立場を必死に守ろうとしているようだ。彼らは多分、以前日本領事館に侵入した学生たちと同じグループなのだろう。見ているうちに、ふとこんな連想が浮かんできた。彼らは、ある宗教(反日教でも慰安婦教でもいいが)の信者であって、かれらの中心に存在する慰安婦少女像は彼らにとって守り本尊であり、拝む対象なのではないかと見えてきた。ある宗教の熱烈な信者にその教えをやめろと言ってもとうてい無理なことは自明の理だ。そう考えると彼らにこの行動をやめさせることはとても難儀で無謀な行為に思える。夜になり、雨がそぼ降る中で像のまわりに何をするでもなくたむろする彼らを見ているうちにあることに気がついた。それは、彼らは小雨でもちゃんと傘をさしているのに、誰一人として、慰安婦少女像に傘をさしてあげる人間がいないということだ。 ひもで自分と結び付けているのだからその像が大切な存在であることはまちがいないはず。ならば雨に濡れないようにと傘をさしてあげて気持ちをひとつにしたらいいのに。そう考えると、もしかしたら、彼らはその像を物質としてしか見ていないんじゃないかと思えてきた。慰安婦に同情し、慰安婦少女像をそのシンボルとして思いを寄せているのに、何か彼らのこころの内側が透けて見える感じがした。雨のソウルの中で何時間も自分の時間を割いて行動している彼らを見ながら、なんとなく割り切れないものを感じて見つめていた。