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くろの旅

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2006年11月05日
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夜明け前の暗い湖。

朝7時だが、日が昇るまではまだ1時間以上もある。

僕はひとり、カヌーに乗り込んだ。


カナダ北東部、ユーコン準州の10月は寒い。今の気温は-5度くらいだろうか。
幸い風はない。鏡のような水面。聞こえるのは岸辺に寄せる微かな波音と、パドルを水に入れる音だけだ。静けさとともにカヌーはMorley湖に漂う。目指しているのは、昨日ヘラジカとオオカミの足跡を見つけた岸辺だ。足跡はまだ新しかった。動物たちが最も活発に動くのは明け方と夕方だ。もしかしたら足跡の主に出会えるかもしれない。

「バサバサッ、クォークォー」
突然水面から何かが飛び立った。眠っていた白鳥の群れが僕に気づいたのだ。渡り鳥たちが南を目指してユーコンを去っていく中、最後までこの地に留まっている白鳥たち。カヌーを通じて足元から這い上がってくる冷気を感じる。一体この冷たい水の上でどうやって命の炎を絶やさずにいられるのだろうか。これ以上白鳥たちを驚かさないよう、静かにゆっくりとカヌーを進める。僕の後ろにはカヌーの軌跡にそって小さな波紋が水面をさざめかして広がっていく。



今朝、僕が起きたのは朝6時。僕をこのキャンプにつれてきてくれたクリンギット族のインディアン、Keithはまだぐっすりと寝ている。寝袋を出るとまずは空を見上げる。惜しいことにオーロラは出ていないが、満天の星空が広がっている。しばらく眺めているだけで、いくつもの流れ星が強い閃光を撒き散らしながら空をよぎる。


星空に見とれいる間にも、冷気が容赦なく体温を奪っていく。さあ、火をおこさなければ。昨晩の焚き火はもう消えている。が、灰の中をかき混ぜてみると小さな炭のかけらが赤くぼんやりとした光を放っていた。すばやく枯れ枝を束ねて炭の上に重ね、息を吹きかける。灰が舞い上がり、目を開けているのが辛いが、この際そんなことは気にしていられない。今、僕は自分の体を温める為の、燃え上がる火が必要なのだ。「ボッ」と音がして、枯れ枝から小さな炎が上がった。パチパチとはぜながら次第に成長していく炎。太い枝に火がつけばもう消えることはない。ほっと一安心するとともに、少しだけ自分が誇らしく思える。火を上手くおこせた時のこの嬉しい感情は小学生のときからまったく変わっていない。


次は体を芯から温めてくれるコーヒーだ。湯を沸かすためのコッヘルを探す。焚き火のそばに転がっている、昨日スープを作ったコッヘルの縁には小さなカヤネズミがうずくまり、わずかにこびりついているスープを必死になめていた。そっと近づいても全くこちらに気が付く気配もない。ふと悪戯心が湧き、さっと尻尾をつかんでみる。一目散に逃げるネズミ、しかし1分もしないうちにまた戻ってきてまたスープをなめる。カヤネズミから見たら僕はビルよりも大きな存在だろうに、見上げた根性だ。カヤネズミがスープをなめ終わるまで、僕も焚き火で体を温めながらしばらく待つことにした。
夜の間しか活動しないカヤネズミは、力強い夜の魔法を操るシャーマンの弟子だとも言われている。夜とも朝とも言えない不思議な時間が過ぎ、やがてネズミは木の根元へと姿を消していった。


コッヘルとカップを湖の水で洗う。汚れを細かな砂でこそぎ落とす。そばの水溜りは凍結しているが、大きな湖の水が凍るまでにはまだ時間がかかる。気温に比べ、水温は多少は暖かいのだが、それでももしこの水に落ちたら1分以内に気を失う事だけは確かだ。


コッヘルに湖の水を汲む。春はBeaver feaverの危険があるが、今の季節はこの水は安全なはずだ。真っ赤な熾きの上に直接コッヘルを乗せると、すぐにシューシューと湯気が立ち始めた。沸騰したての湯でコーヒーを淹れる。表参道のオープンカフェで着飾った女の子たちを眺めながら飲むエスプレッソもいいが、凍てつく湖畔で一人震えながらすするアメリカンも悪くはない。


体が温まると、空腹感を覚えた。Keithが朝食用に残しておいたヘラジカのソーセージの、最後の一本をを失敬することにした。細かいことは気にしないKeithの事だ。朝食がチーズとパンだけになっても笑って許してくれることだろう。
生木の枝を削り、ソーセージを刺して焚き火の縁に立てかける。しばらくしておいしそうな肉汁が湧き出てくる。パンにはさんで食べるとすこぶる旨い。


日の出までにはまだかなり時間がある。でもKeithはまだしばらくは起きてきそうにはない。暗い森の中に目をやると、姿は見えなくても動物たちのいのちが静かに息づいている気がしてならない。そこで、僕はたまらずにカヌーを湖に漕ぎ出したというわけだ。



昨日、湖畔をトレッキングしている時に見つけた、巨大なオオカミの足跡と、それはるかに上回る大きさのヘラジカの足跡。そのポイントまで、岸に沿ってゆっくりと漕ぐ。明け方は動物の活動が活発になる。もしかしたら、足跡だけでなく本物が見られるかもしれない。期待とは裏腹に、動物の姿は何も見当たらない。30分ほどじっと息をこらして待ってみるも、やはり何も出てはこなかった。あきらめてカヌーを漕ぎ始めた瞬間、岸辺の木の枝から1羽の大きなワタリガラスが飛び立った。僕をあざ笑うかのように鳴きながらカヌーの上を旋回すると、対岸へと消えていった。

昨日の晩、Keithが焚き火に手をかざしながら話してくれたワタリガラスの神話を思い出す。ワタリガラスがこの世界を創生し、この世に光をもたらした頃の話。まだ人間とその他の動物たちとの区別が定かではなく、お互いが意志の疎通をしながら生きていた時代の話だ。

ふと、森の中に、人間をはるかに超える叡智を持った動物たちの存在を感じる瞬間がある。深い森の世界を統治しているのは動物たち。風変わりな動物を観察しているのはこちらではなく、向こうなのだ。


生きもの気配に満ちる湖をずっとしずかに漕ぎ進んでいく。あたりが次第に明るくなっていく。山の稜線がくっきりと見えはじめた。そして淡い、ぼんやりとした朝焼け。太陽と雲が描き出す、紫ともピンクとも青とも言えない奇妙な色。不思議と、真っ赤に染まる朝焼けよりも暖かさを感じる色だ。気温よりも心を暖めてくれる朝焼け。


パドルを漕ぐ手を休め、ぼんやりと朝焼けを見ていた僕の視界の中で何かが動いた。顔を振り向けると、木立の奥に、灰色がかった白い大きな体をもった何ものかが僕をじっと眺めていた。しかし、次の瞬間、凝視する間もなく身を翻して走り去ってしまった。しっかり見られなかったので確信は持てない。でも、体のサイズから見てヘラジカでないことだけは確かだ。あれはきっと、オオカミに違いない。

明るくなるまでじっと待つ。しかし、その白い影を再び見ることはできなかった。


太陽が湖面を照らし、空気が少しだけ温かみを持つようになると、今度は風が出てきた。荷物を載せていない、空のカナディアンカヌーにとって風は大敵だ。横風に翻弄されると舳先を前に向けることが難しくなる。

Keithももう目を覚ましている頃だろう。

キャンプサイトへ戻ろう。

深い森を駆ける雄々しいオオカミの姿を心に浮かべながら、僕はカヌーの向きを変え、パドルを水に入れると、ゆっくりと漕ぎ始めた。





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最終更新日  2007年03月15日 14時09分28秒
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