Sun&Moon
全153件 (153件中 101-150件目)
< 1 2 3 4 >
あなたが私や学生たちの前に現れる夢を見た。私と目を合わせようとせずに、その場所に来た理由を一生懸命言い訳してから、どこかに行ってしまった。。全然感動しなかった。「ほら、あれが月原さんよ。」「へえー。」私の前で泣き崩れてくれたら、私は永遠にあなたのそばを離れられないのに。(本日のブログより)
2005.09.09
肝心なときにエネルギーが落ちてきた。これでは、今日からの強行軍は乗り切れない。私は今、あなたの助けを必要としています。
2005.09.03
私の中の一番触れてほしくない部分に、あなたが触れようとしている。 「どうか、お願いだから、絶対にそこだけは触れないで下さい。 あなたがそこに触れたら、私はあなたの虜になってしまいます。 そうしてもしもあなたに見捨てられたら、私はおしまいなんでです。」 でも、本当は、私が一番嫌がることが、実は一番してほしいこと。 だからあなたは私が何を言おうが、強引にそこに触れてほしい. あなたが私を見捨てないと、約束できるなら… そうしなければ、本当の幸せの扉は開かない。?(本日のブログより)?
2005.09.01
愛とは、限りなく魅惑的な麻薬。 それはどんな麻薬よりもはるかに刺激的。 だから禁断症状も激烈だ。 一度触れた後に失おうものなら、 それこそ狂人になるか、廃人になるしかない。 そこから逃げる方法は、ただひとつ、「鈍感」になることだけ。 だからこの世の全ての人が「鈍感」になってしまった! でも、我々はもう一度、「敏感」にならなければならない。 なぜなら、愛なしには、世の中のあらゆる問題は何一つ解決しないから。 敏感になることは、怖いこと、危険なこと。 また失うのでないかという恐怖がよぎる。 でも、大丈夫、あなたが愛から逃げさえしなければ、 誰もあなたから愛を奪い取ることはできない。 あなたが逃げさえしなければ、あなたはもう二度と愛を失うことはない。(本日のブログより)
2005.08.30
モノにはエネルギーがあり、それと互いに引き合うものがある。モノを完全に自由にしたら、そちらに向かって飛んでいくはず。(あなたがもしもモノだったら、どこに行きたいと思うだろうか?きっと、自分を本当に必要としてくれる場所に行きたいと思うだろう。)モノを呪縛から解き放てば、必ずそれを本当に必要としている場所に移動する。だから心配いらないよ。すべてを解き放って自由にすれば、あなたが本当に必要としているものは必ず手に入る。(人も同じ。)(本日のブログより)
2005.08.29
頑張って生きてきた人も、のほほーんと生きてきた人も、たくさんのことを成し遂げた人も、何もしてこなかった人も、みな同じように幸せになれるとしたら、不公平だと感じるだろうか。「私はこんなにも努力してきたのに、あんなに怠けていた奴も同じように幸せになるなんて、許せない」と。あなたが幸せになれない理由はまさにそこにある。世の中のすべての人が幸せにならない限り、あなたも幸せになれるはずはないのだから。(本日のブログより)
これから起きる変化は、すべてをリセットするようなもの。まるで、データを打ち込んでいたコンピュータがフリーズして、データが一瞬にして飛んでしまうように。後で使おうと思って今までたくさんのものをため込んできた人たちは、さぞかしショックを受けるだろう。でも、一瞬一瞬にすべてをかけて生きてきた君なら、きっと動じないよね。(本日のブログより)
彼女の前で 思いっきり妬いてみたらどう?とにかく彼女に正直な態度を見せるしかないよ。言っとくけど、女は鈍感だけど正直。男は敏感だけど嘘つき(本心を隠す)。女を敏感にしたければ、男が本音を隠しちゃだめ。どんなに痛くても、隠しちゃだめ。男の嘘と、女の鈍感さは表裏一体なんだ。(あるブログへのコメントAugust 25, 2005 15:38:26)
2005.08.26
分かれ道で迷ったら、危うい方へ、頼りない方へ、怖い方へ。自分の中の、もっとも頼りない部分を信頼することが、本当の自信につながる。(本日のブログより)
2005.08.22
愛は見返りを求めない。本当の愛は、無条件の愛。と言われる。もしも神が人間を愛するなら、そのような愛し方をするだろう。だとすれば、それはすべての人が受け取れるはずだ。にもかかわらず、「自分は愛されていない」と感じる人が多いのはなぜだろうか。彼らは言う。「無条件の愛ならば、どんな人間でも愛してくれるはず。ならばなぜ神はこの私を受け入れ、愛してくれないのですか?」もちろん、神はすべての人を愛している。でも、それを受け取るのは、実は易しいことではない。「無条件の愛」というものは、限りなく寛大だからこそ、とてつもなく厳しい一面を合わせ持っている。それは「見返り」を決して受け取らないのだ。一方的に受け取るだけの愛、というのは、受け取る側にとってはつらいものだ。Give and takeという考え方が当たり前になってしまった人間にとっては、受け取ったらその分返せる方がずっと気楽だ。だから、神の愛というとてつもない幸せを与えられたとき、自分はこんなものを手にするのにふさわしいことは何一つしていない、と感じてしまう。彼らは言う。「私にはこんなものを受け取る資格はありません。」と。努力すること、頑張ることが正しいと信じている人々は、何もしない、何もできない自分自身など、決して許すことができない。彼らにとって、何もせずに「神の愛」を受け取ることは、罪悪でしかない。だから、彼らは自分から「神の愛」を遠ざける。彼らはいつも神に愛されているのに、彼ら自身がそれを拒否しているのだ。神はいつでも、あなたを許し、受け入れ、愛している。あなたが自分自身を受け入れ、許すことができたとき。あなたははじめてそのことに気づく。 (本日のブログより)
2005.08.21
かつて私があなたを本当に愛していたとき、世の中のすべてがいとおしかった。あなたを愛すれば、私の心は全開して、必然的に、すべての人を愛してしまう。だから、もし、私があなた以外の人を好きになることを、あなたが拒むなら、それは私に「あなたを愛するな」と言っているのと同じこと。私には、「あなただけ」を愛することなどできない。あなたが私に「すべての人」を愛することを許すとき、はじめて、私はあなたを愛することができる。 (本日のブログより)
目前にどんなに大変なことが迫っていても、 見つめるのは、今、この一瞬だけ。(本日のブログより)
2005.08.20
私は愛のエネルギーとなって溶け出し、あなたに降り注ぎ、跡形もなく消え去る。だからあなたは私に恩返しなどできない。あなたはただ、限りない幸せを受け取るだけでいい。 (本日のブログより)
2005.08.18
今、愛されたい人に愛されている、と感じる。私の存在すら知らない人なのに。確かに心の奥でエネルギーが通っている。私に会ったことがなくても、きっと私の存在を感じているはずだ。限りない未知の歓びに目覚める。(本日のブログより)
2005.08.15
私にとって一番恥ずかしいのは、あなたの前で幸せになってしまうのを隠せなくなること。Date: Sun, 25 Feb 2001 10:26:25 +0900(Lettes to... より)
本当の幸せは、実に刺激的な快感なのだが、身構えて身を硬くすると、ものすごく痛い。思わず、逃げ出してしまいそうになる。だから、本当の幸せに近づいたら、決して身構えてはいけないよ。自分を、相手を、信頼して心を許そう、緩めよう。(本日のブログより)
私はあなたに真実を突きつける。目をそらしても、それは常に目の前にある。目をつぶっても見えてしまう。死に逃げることすらできない。あなたはもう、真実から逃げられない。 (本日のブログより)
2005.08.09
オーストラリア派遣中で試合が見れない息子の分まで応援していましたが、見事に勝利しました。実にいい試合でしたね!2回戦もおもしろくなりそうです…(息子たちが帰国するまで、勝ち続けていられるかな?!派遣生がみんな甲子園に応援に行きたがっていて、もしも決勝まで残ったら、旅行社に頼み込んで帰国便を関空に変更してもらうと引率の先生が言ってました!)(本日のブログより)
2005.08.08
世の中のあらゆる悪魔、魑魅魍魎たちよ!私に襲いかかっておいで。私は全くの無防備で、あなたを受け入れる。殴ろうが、殺そうが、好きにするがいい。私があなたを愛してあげる。そうしないと、私の心の中に突っ張っている何かがはずれない。私は早くそれをはずして、楽になりたいの。私にはあなたが必要なんです。(本日のブログより)
2005.08.06
人々が殺し合ったり、他人を恨んだり、仕返しをしたいと思ったりするのは、彼らがまだ本当の悲しみを知らないから。本当の悲しみとは、そんなに甘っちょろいものではない。誰でも、それに直面したら、あまりの衝撃に絶句するしかない。そして、誰でも、必ずこう思うはず。「私以外の誰にも、もうこんな思いはさせたくない」と。だから、そう語る人々の言葉の重みを、私たちはもっと深く受け止めなければならない。彼らはあなたの身代わりとなって、辛い体験をしてくれた。そして、あなたをそんな目に遭わせないために、必死に語ってくれている。今日は60回目の広島原爆の日。(本日のブログより)
すべての人は心の深いところでつながっていて、互いに影響し合っている。誰一人として、そこから無関係ではあり得ないのです。だから、あなたが不幸になれば、みんなが不幸に落ちる。あなたが幸せになれば、みんなが幸せになれる。このことは、私の主義主張ではなく、「真実」なのです。私はそれが真実であることを知ってしまった以上、誰が何と言おうと、そのことを否定することはできません。「不幸であること」に慣れてしまった人たちがいる。彼らとて、最初から不幸であることを選んだわけではないだろう。きっと、かつてとても深く傷ついたことがあって、その痛みから逃げようとしてに心を固く閉じてしまったが故に、 不幸に落ちてしまったのにちがいない。けれども、一旦不幸に慣れてしまうと、そこから抜け出すのは非常に難しい。「いつも追いつめられて、疲れていて、何もかも嫌になることもあるけれど、でもそれなりに何とか楽しく生きているんです。 私はこのままがいい。慣れないこと、新しいことは面倒だからいやです。『幸せ』だって? そんな怖いことはまっぴらごめんです。」と、彼らは言う。「どうか幸せを諦めないでください。私はあなたに幸せになって欲しいんです。」「なぜですか? あなたには関係ないでしょう?」「そんなことはありません。あなたが不幸になれば、間違いなく、私も不幸になります。みんなが不幸になります。」「何で私の人生に干渉するんですか。あなたに私の生き方に口出しする権利はありませんよ。」「世の中のことは、みんなつながっているんです。あなたが不幸ならば、必ずたくさんの人が不幸になります。」「それはあなたの考えでしょう? 私はそうは思わない。」「違います。それはまぎれもない事実です。私にはどうしようもないことなんです。」「何でそんなふうに私のせいにして、私を追いつめるんですか。他人は他人、私は私です。私がどう生きようと、あなたはあなたで幸せになればいいじゃないか。」「それが不可能だから言っているんです。あなたがどう生きようとあなたの自由です。けれども、あなたが不幸であることを選ぶとき、たくさんの人を道づれにするということを、 あなたにとって最も大切な人をも不幸にしているということを、どうか忘れないでください。」「あなたがそう考えるのは、あなたの勝手だ。でも、私には私の考え方がある。それぞれお互いの考えを認めるべきじゃないか。」 と彼らは怒り出す。 互いの主張を認め合う。確かに紳士的なやり方だ。ほとんどの人は、それが正しいやり方だと言うだろう。でも、私が言っていることは、私の主張ではないのだ。真実なのだ。 それを知っていながら、どうして引き下がることができようか。その場を丸く収めるために、嘘をつくことこそ、最も不誠実なやり方ではないのか。「どうせ私も不幸なのだから、他の人がどうなろうと関係ない。」「そんなふうに生きていると、あなたはますます追いつめられますよ。ますます辛くなります。」「ああそうですか。わかりましたよ。もっと辛くなればいいんでしょ? どうなろうとかまわない! どうせ辛いのは慣れているんだ!」 彼らが決して認めようとしないのは、「自分と他人がつながっていて、自分が不幸になれば他人も不幸になる」という考え方自体である。 自分と他人が無関係であると思うことによって、彼らは安心したいのだ。自分がどう生きようと勝手じゃないか。どうせ他人とは関係ないから、と思えるから。 けれども、「自分と他人がつながっている」ということを認めない限り、彼らは決して地獄から抜け出すことはできない。 私は言葉を失って、深い悲しみに打ちひしがれる。私が彼らがこれからどんなに辛い目に合うかを知っている。それはかつて私自身が 経験したことだから。それは想像を絶する地獄だ。私は彼らをそんな目に合わせたくない。 でも、彼ら自身がそれを望むなら、私にいったい何ができよう? 最後にはこう言うしかないのだ。「わかりました。あなたの人生です。あなたの好きなように生きてください。あなたが不幸を選ぶというなら、私も一緒に地獄に堕ちましょう。」 2004.8.1(エッセイより)
自分が置かれている客観的な状況や、他人の思惑や意見、さらには、今までに起きたあらゆることに一切関係なく、今、自分が本当にやりたいことをやること。今まで99回試してできなかったことでも、次はできる。そんなふうに自分の無限の可能性を信じること。今まで人類がとらわれてきた、あらゆる悪循環から抜け出す道はそれしかありません。確率論や科学的論理などからは、根本的な解決策など生まれるはずはないのだから。他人に合わせれば分かり合える、世の中に合わせれば生きていける、と錯覚できた時代は終わったのです。表面的に合わせて、分かり合えたふりをしていたら、自分の心の中の葛藤は大きくなるばかり。むしろ、他人とは全く相容れない、孤独の道を行くことこそが、究極的にはすべての人とつながり合える唯一の道なのです。そんなことをしたら、何かが壊れてしまうって?壊れてしまって、何が悪い?それこそが、壊さなければならないもの。自分と他人を隔てている壁、「すべてはつながっている」という事実を覆い隠している壁。未だかつて、その壁が壊れたことはなかったから、壊すにはもちろん、とてつもない勇気が必要です。だからといって、そこから逃げる訳にはいきません。人には誰でも破壊願望があるのです。自分を不自由にしている殻を壊したい、という。自分では怖くて壊せなくても、あきらめることもできない。だからストレスはたまる一方。誰かに自分の代わりに壊してくれないか…そんな思いが、心の奥底で大地震や天変地異や戦争への願望を生むのですよ。人々の意識が世の中を創るのです。そんな人が増えれば、本当にそうなります。「僕は平和を望んでいるんだ。」ですって?冗談じゃない!自分の周りの現状を、自分で壊す勇気がないことを、「平和」という言葉で正当化する、あなたのような人こそが、戦争を引き起こす元凶なのですよ。(本日のブログより)
2005.08.02
考えてみてください!野生動物は荷物なんかないし、片付ける必要もありません。人間がモノを作り始める前までは、すべてのものは自然に土に還ったし、掃除する必要なんてなかったのです。 人間がゴミというものを作り出してから、片付ける必要が生じました。でも、いくら片付けても、本質的に自然に還らないモノはどこにあっても自然破壊をします。「片付ける」という行為は、汚いモノを自分の目の届かないところに捨てることでしかないのです。 私は「片付けられない人」は至極純粋で、正常な感覚の持ち主だと思います。みんながきちんと「片付けて」いたら、人間は自分たちが「作ってはいけないモノ」を作り続けていることに気がつきません。地球はどんどん汚れていくばかりです。「片付けられない人」は、汚いものを目の届くところに置くことによって、人間に警告を発しているのです。「こんなものを作ってはいけない」と。 私はいずれ、「きちんと片付ける人」よりも「片付けられない人」のほうが正しいと言われるようになると信じます。いつまでも汚いものを目の届かないところに捨て続けるわけにはいかないのですから。 自分の行為、性格をもう少し違った観点から見てみてください。その本当の価値に気づくことができます。 世の中に合わせられない自分が悪いのではなくて、世の中の方がおかしいのです。自分を肯定しましょう。自分のなかから起こるさまざまな「良くない感情」(怒り、悲しみ、憎しみなども)にも、きっとなにか肯定的な存在理由があるのです。怒るときも「怒ってはいけない」と思って怒るのではなくて、自分が正しいと肯定して怒りましょう。きっと結果が違ってきます。 (Jul 30, 2005 08:39:30 AM) (掲示板より転載)
2005.07.30
あなたは私に,「俺を受け入れろ」と言う.「お前が俺を受け入れればいいんだ.そうすればすべてが解決する.」と.私はあなたを受け入れているよ.いつでも,ありのままのあなたを.でも,それだけじゃだめなんだ.あなたが「自分自身」を受け入れない限り,あなたは自分に,「私に受け入れられること」を許さないから.いくら,他人があなたを受け入れても,神があなたを受け入れていても,自分が自分自身を受け入れない限り,何も変わらないんだよ. (本日のブログより)
2005.07.27
物事を解決するのに計画なんて必要ない。本当の解決は突然やってくるものだから。さなぎがチョウになるときも、卵がひよこにかえるときも、それは突然起こる。たとえ、水面下では少しずつ準備されてきたとしてもね。さなぎの中で、卵の中でそんな変化が起きていることは誰も気付かない。目に見える変化は突然だ。半分青虫で、半分チョウのものが、だんだんチョウになっていく姿なんて想像できる?そんなことあり得ないよ。だから、このまま良いほうに努力していけば、何年後には良くなります、とか、ほら、努力したから、少しはましになってきたでしょう?このままがんばり続ければいいんですよ。百年後にはもっとましになります、なんていうのは全部嘘だ。そんなことを言う人に騙されてはいけないよ。それはただ、本当の解決を拒むための口実だ。本当の解決のためには計画なんて何の役にも立たない。計画することを放棄する勇気こそが、さなぎを破る力になるんだよ。卵が割れる力なんだよ。卵の中ではひよこが出たがっている。その叫びが聞こえるはずだよね。Date: Sun, 25 Nov 2001 07:56:39 +0900(letters to... より)
2005.07.24
「助けて」と言いながら、その目は、「助けないで」と訴えている。「あなたが助けてくれなければ、私は崩れ落ちることができる。そして私はすべての苦しみから解放される…」と。へたな思いやりは禁物。それは偽善でしかない。(本日のブログより)
でも、そのことを一生懸命隠そうとしている。残酷なことが好きなのはいけないこと?それは人間が克服しなければならないこと?それは違うよ!この世で一番残酷なことは、愛することだよ。愛することは、人を傷つけること、苦しめること、恐怖に陥れること・・・なぜなら、愛は人が持っている硬い殻を壊すから。今まで人がずっと守ってきた、頑丈な殻に強烈な一撃を与えるから。愛することは最も痛いことなんだ。でも、それは人を不幸にすることじゃない。人をその殻から自由にして、限りない幸せをくれるもの、それが愛。だから人が残酷さを好むのは当然さ。人は残酷なことを楽しんでいいんだ。いや、残酷なことを楽しまなければならない。そうしなければ、人を愛することなんかできない。人を閉じ込めて不幸にする硬い殻を壊すことなんかできやしない。みんな、本当の残酷さを楽しむ勇気がないからいけないんだよ。だから、戦争や暴力や、嘘や・・・そんな偽の残酷さに逃げるんだ。それが一番いけないことなんだよ。私はあなたに残酷に愛されたい。どんなに虐められても、どんなにひどいことをされても、それでもあなたを求め、あなたにすがることしかできない私を見せたい。そうすればきっと、あなたは私が本当にあなたを愛していることを信じてくれるでしょう?私はそんなふうにしか、あなたを愛していることを証明できないの。Date: Tue, 13 Nov 2001 07:09:20 +0900(letters to... より)
より深く死ぬことによって、より新しく生まれ変わる。 (2005年04月16日のブログより)
2005.07.23
私の醜態を見たあなたにもしも嫌われて捨てられたら、私はおしまいだ。完全に破滅する。そんなぎりぎりのところであなたに私をさらし続ける。私にとって、愛するとはそういうこと。 (2005年06月17日のブログより)
2005.07.19
乗馬クラブの部内競技で、なんと優勝してしまった。(馬はエビアン)つい最近まで失敗続きで悪戦苦闘していたのに…思いがけない快挙に本人も周囲もビックリ。息子曰く、「何で急に覚醒したの?」今日良かった点は、暑さのせいで何も考えられなかったことかな。何も考えない方が確かにうまく行く。家に帰ってきたら、南北朝鮮の間で光ケーブルがつながったというニュースをやっていた。確かに、何かがつながった感じ。ひょっとしたら、見えないところでもの凄くいいことが起きているかも。(本日のブログより)
2005.07.18
準備はしない。そんなことを始めたら、永遠に終わらないから。(2004年11月26日の日記より)
2005.07.17
表面を取り繕うために責任転嫁しないで、むしろ正直に自らの混乱した姿を見せよ。誰でも自分の醜態は他人に見せたくないと思うもの。でも他人の目から見れば、それは案外魅力的だったりする。互いの排泄物や死骸をありがたく食べながら共存しているのが、自然界の摂理というものだ。自分から出ていくものは、汚いと思わずに正直に堂々と出せばいい。必ず、それを必要としている人がいる。ことばであれ、何であれ。そしてそのとき人は自分の本当の存在価値に気付く。(2004年12月23日の日記より)
You can be upset,You can lose your temper,You can shout,You can scream, You can cry as much as you want,You will be forgiven. Date: Tue, 30 Apr 2002 04:48:14 +0900(letters to... より)
2005.07.16
最近はっきりわかったことがある。ひとつは、「何かに行き詰まっているときは、必ず代案が用意されている」ということ。つまり、行き詰まっているということは、代案の準備が完了したということを意味する。ちょうど、殻いっぱいに大きくなって殻が窮屈になってしまったひよこは、もう外に出る準備ができているのと同じように。だから今までのやり方を完全に捨てて、代案に乗り換えればいいだけの話だ。その代案はあまりにも簡単で、しかもすべての問題を見事に解決してくれるので、安易すぎると思われがちだが、要はすべてを捨てて代案に乗り換える勇気さえあればいい。もうひとつは、「最も価値のあることは、自分を許すことだ」ということ。人は(特に向上心のある人ほど)、「許す」よりも「厳しくする」ことを好む。「自分に厳しくして努力し続けないと、自分が堕落してしまう」とか「自分を許すなど、あまりにも安易なやり方だ」と思うのが普通だ。それでも、「自分を許すのが最も価値あることだ」と言い切れるのは、それが「最も勇気のいること」であるからなんだ。努力し続けるのには勇気はいらないよ。Date: Sun, 13 Apr 2003 06:43:06 +0900(letters to... より)
2005.07.15
表面的に異なっていればいるほど、遠ければ遠いほど、より深いところで出会える。 (本日のブログより)
2005.07.14
「テロは本当に許しがたいことですが、それは報復によって止めることはできないのです。自制しなければなりません。」 もっともな言い分のように聞こえるよね。でも本当に許しがたい人は、そんなことを言う人だ。まるで、自分はこの事態とは無関係だと言わんばかりだ。 彼らは自分の中に溜め込んでいるストレスが、このテロや報復合戦の原動力になっていることに気付こうともしない。自分が善人のふりをしてさまざまな欲望を押さえ込んでいることが、この悲劇の本当の原因であることなど、考えもしないのだよ。 彼らは自分が嫌いだ。だからいつも「もっとよい人間にならなければならない」と考える。彼らは自分自身をいじめ、憎んでいる。自分を憎むものは、当然他人を憎むようになる。彼らは本当は他人が憎くてたまらない。傷つけたくてたまらない。けれども、彼らの最大の欲求は「善人になること」だから、他人を傷つけたい欲求は当然無意識の奥に押し込まれる。それがテロリストやアメリカの横暴の力になるんだ。テロリストやアメリカは、彼らの他人を傷つけたい欲求のただの代弁者に過ぎない。だから、本当の原因は、テロリストやアメリカにあるのではなく、この事態と自分とはまるで無関係であるかのようにふるまう、彼ら自身なのだ。どんなに認めたくなくても、もう、そのことに気付かなければいけないよ。 でも、一旦気付いたら、そこでまた自分を非難してはだめだよ。問題は決して自分を責めることでは解決しないのだから。 今度はこう考えよう。自分がこの問題の元凶なら、この問題を終わらせることができるのも、自分しかいない、と。つまりすべての人を苦しめている元凶が自分なら、すべての人をその苦しみから救うことができるのも、自分なのだ、と。 だから、一切の我慢はやめて、自分を許そう、自分が本当にしたいことをさせてやろう、と。 そう考えることだけが、この悲劇を終わらせることができる唯一の方法だ。Date: Sun, 02 Dec 2001 11:39:24 +0900(letters to...より)
2005.07.13
太陽の光にさらされて、分厚い氷が溶け出す。光を遮るものは、もう何もない。 (本日のブログより)
すべてはうまく行く。心配いらない。まっすぐ行っても、迷って行っても、結局はみんな辿り着くようになっているのです。ですから、迷うときは思いきり迷えばいい、頼るときは思いきり頼ればいい、そうすればおのずと自分で歩かざるを得ないように追い込まれるものだから・・・追い込まれればみんな自分で歩き出すものです。だって、そうするしかないから。自分で歩くことはとても怖いことなので、誰しも自分で自分を追い詰めないと踏み切れないものなのでしょう。だから、みんな無意識の内に自分を追い詰める行動に出てしまうのです。追い詰められることはいやなものですが、でもそうしないと変われないのだから仕方ない。すべてのことを楽天的に考えましょう。そうすれば案外簡単に乗り切れるものです。すべてはうまくいく。心配いらないよ。Date: Tue, 02 Jul 2002 22:30:10 +0900(letters to... より)
2005.07.11
真実は立証できない。なぜなら、真実の証拠は「すべて」なのだから。「すべて」を語ることはできない。故に、立証できるものは真実ではない。それはただ、ものごとの一面的な見方でしかない。真実はただ、腑に落ちる。(2005/7/2のブログより)
2005.07.10
決して振り向いてくれない人を死ぬほど好きになってしまう。それはとっても幸せなことだね。哀しみが極まるとなぜか歓びになってしまうものだから。それは自己開放、一種のエクスタシーだ。世の中のほとんどの人に対しては、究極の片想いをすることができる。それは自己完結していて、とても平和な歓び。でも、たった一人だけ、それができない人がいる。彼に拒否されたら、私は廃人になってしまう。生きることができない。存在することすらできない。彼は私の存在理由そのものだから。私がかつて犯した間違いは、彼に対して、究極の片想いをしようとしたことだった。自己完結していて、平和なことが正しいと信じていたから。でも、それは自己開放ではなく、自分を閉ざす道だった。守りに入る道だった。なぜなら、そうしないと、すべてが動いてしまうから。すべてを動かしてしまうことが怖かったんだ。(2004年03月04日 の日記より)
私が何か宗教を信じているように見えますか。私はいかなる宗教も信じていませんよ。でも、あらゆる宗教のもとになっているエネルギーが何かは、わかるような気がします。それは「愛」です。ただ、それは言葉では表現できないものなので、言葉にしようとすると、必ずどこかで歪んでしまいます。宗教というのは、言葉による教えですから、真実からは微妙に離れてしまい、あらゆる宗教の言うことがちょっとずつ違ってきて、そのことから宗教間の争いが生まれてしまったのです。私が授業中に書いた円のことを覚えていますか。その円の一部があなたで、その反対側の一部が彼です。あなたと彼は、円の中心の一点で接しています。そこはこの世のあらゆるものとつながっている接点です。そこに触れれば、自分はこの世のあらゆるものとつながっているということを実感できるようになります。その場所こそが、万物の根源すなわち神なのです。 あなたが彼を愛するエネルギーの中に、神はいます。彼に対する「完全な信頼」の中に、神はいます。でも、その場所に行くためには、あなたと彼が自分のすべてをさらけだしてお互いの根源で出会わなければなりません。神を信じることは、決して怠惰なことではありません。それはとてつもなく、勇気のいることなのですよ。だから、神を信じることは、本当はとても怖いことです。だから世の中の多くの人は「宗教を信じる」ことで、ごまかそうとしているのです。神を信じることは、神頼みをすることではなくて、自分を完全に信じることです。自分のエネルギーを信じて、自分を完全に解放することなのです。彼を信頼すれば、それができますよ。なぜなら、彼はいつもあなたを反対方向から正しい方向に向かって引っ張ってくれるからです。Date: Tue, 19 Feb 2002 09:39:21 +1300(letters to...より)
2005.07.09
「神様はふたりの愛の深さを確かめているんだ。でもな、ヒョギョン、神様が試練を与えるのは、それを乗り越えられる強い人間にだけなんだよ。」『初恋』(本日のブログより)
2005.07.08
討ち死に覚悟で真剣勝負を挑んでみたものの、あなたは刀すら抜いてくれませんでした。全く自分の力不足を痛感します。でも、全力を尽くしたのだから悔いはありません。私の"さらけ出す"様があなたの目にどのように映ったのかわかりませんが、私にとってあれ以上の幸福はありませんでした。だからそのようなチャンスを下さったあなたに感謝します。 あなたのすすめてくれた本を読みながら、あなたの目の中にある限りない優しさを思いました。ひょっとしたらあなた自身、自分にそのような優しさがあることに気づいていないのではないでしょうか。それはあなたが小さい時、あまりにも悲しい思いをしたからなのでしょうか。だとすればあなたに必要なのは気の利いた言葉などではなく、あなたを心から愛してくれる優しい伴侶なのかもしれません。 夜、息子を寝かしながら言いました。「ママ、今日泣いてごめんね。」「ママどうして泣いたの?」「さあどうしてかしら?」「誰かが帰ってきたからだよ。」「誰かが帰ってきたから?」「そう。」 その「誰か」って、誰のこと?と聞こうとしたら、息子はもう深い眠りに落ちかかっていました。そう言われれば遠い昔、ずっと待っていたのについに帰ってこなかった人がいたような気がしました。その人があなただったのでしょうか。でも一体私は誰を待っていたのでしょう?(letters to...より)
2005.07.06
777 2005-07-06 05:47:25 S&M1216さん 自分で踏んだ。
このところ、私の恋占いが絶好調です。 ふたり(匿名でもかまいません)の間のエネルギーの流れを読みとって、本当の相手かどうかを見るのですが、「○」と言われた人も、「×」と言われた人も、皆「腑に落ちた」「当たっていて怖い」と納得してくれたのには驚きました。(もちろん「×」の人には、他に本命がいます。) 結局、みんな自分自身がすでに本当の答えを知っているのですね。 「○」の方! あなたの幸せがみんなの幸せにつながるのですから、勇気を持って突進しましょう。(本日のブログより)
「病気が教えてくれる病気の治し方」(柏書房)という本を買いました。素晴らしい本ですね。 病気は、自分に欠けていることを正直に教えてくれるパートナーである。(正直すぎて耐えがたいこともあるかもしれないが)、という話です。病気を敵視するのではなく、見方を変えて病気の言葉に耳を傾ければ、病気の本当の目的は「人を健康にすること」だということがわかるはずだ、というのです。 この本の最後の方に、ある説話が引用されていました。とても面白かったので、ここに載せておきます。 「男が恋人の家のドアをノックすると、なかから『どなた?』という声がした。『わたしだ』と答えると、『ここはあなたとわたしふたりのためにはせますぎるから』と言ったきりドアは開かなかった。一年間ひとりでさびしく過ごしたのち、男はふたたび恋人の家のドアをノックした。『どなた』──『おまえだよ』。すると、ドアが開いて男はなかにむかえいれられた」(2004/11/17の日記より)
2005.07.03
相手を傷つけまいと思いやったつもりでオブラートに包んだことばや嘘が、かえって誤解を生み、その誤解が、もっと深く人を傷つける。結局真実しか人を救えない。(2005/4/15のブログより)
2005.07.02
あなたは何一つ間違っていない。あなたに何か問題があるとすれば、それは自分に自信がないこと、だけだ。(2004/10/1の日記より)
2005.07.01
客観的でなくていい。一般的である必要もない。ひたすら個人的で、独りよがりでかまわない。どこまでも深く追求していけば、必ず真理に辿り着く。そして、それがすべて人の共感を呼び起こす。「現象のぎりぎりの存在理由が、現象のぎりぎりの細部であるとはなんぴとも知るところで、 かくて極度の特殊化だけが、極度の一般化に有効にはたらきうるのです──フェルディナン・ド・ソシュール」(『沈黙するソシュール』より)2005/6/28のブログより
2005.06.29
自分自身ほどわからないものはありません。 自分が何をしたいのか、本当にわかっている人がどれほどいるでしょうか。学生に将来の希望を聞いてみると、「実は自分が何をしたいのか、よくわからない」という答えにしばしば出くわします。自分は何のために生まれてきたのか、という問いになれば、答えられる人はごくわずかでしょう。 ご飯が食べたいなどの生理的な欲求なら簡単にわかると思うかもしれませんが、それすらも怪しいことがあります。たとえば、では何を食べたいのかと深く追求してみれば、答えられないことが多いのです。「そばが食べたい」と思う人がいたとしても、その理由を聞いてみると、「ダイエット中だから」などという答えが返ってきたりします。だとすれば、その人は本当はそばが食べたいのではなく、ステーキが食べたいのを我慢しているだけなのかもしれないのです。また、将来の希望の職種として「公務員」を選ぶ人の中には、その理由として「経済的な安定」を挙げる人がかなりいます。ならば彼らは本当は公務員ではなく、他にやりたいことがあったのに、食べて行ける自信がなくて諦めてしまっただけなのではないでしょうか。いずれの場合も「本当にしたいこと」ではなくて、「しなければならないこと」を「したい」と言っているにすぎないのです。 一体、人はどうしてこうも、自分が何をしたいのかわからなくなってしまったのでしょう。それは人が常に何かを「しなければならない」という観念に支配されているからではないでしょうか。私たちは普通、幼いときから、「したい」ことよりも「すべき」ことを優先するほうが正しいと教えられてきました。だから、「すべき」ことをせずに「したい」ことをしようとするとき、多少なりとも罪悪感を感じずにはいられません。一般的に、「したい」ことを上手に我慢できる人は立派な人だと思われがちです。それ故人は、自分が「本当にしたい」ことを押し隠し、「しなければならない」ことを「したい」のだと自分自身に言い聞かせるようになってしまったのではないでしょうか。 けれども、「本当はしたくないのに、しなければならないこと」を無理にやっていると、心の奥で「本当にしたいこと」が反発を始めるようになります。その葛藤を押さえ付けなければならないため、「しなければならないこと」に全力投球することができません。エネルギーが分散されて、自分自身が分裂してしまいます。そうなると、いくら頑張ってもエネルギーを消耗するだけで、すべてが空回りするようになります。 つまり、自分が「本当にしたい」ことは、「しなければならない」ことで押し殺すことはできないのです。むしろ、抑圧すればするほど、自分の中で反発を起こし、ストレスを生み、ついには健康を害して、「しなければならない」ことさえもできなくなってしまうものなのです。真面目な人ほど「自分の努力が足りないのだ」と考えて自分を叱咤激励して頑張ってしまうので、さらに辛い窮地に追い込まれることになります。 人が「本当にしたいこと」をしているときは、そのような葛藤はありません。心の底からやりたいことをやっているわけですから、自分自身が分裂することもないし、心の迷いもありません。だから自分の全エネルギーを注ぐことができ、頑張った分だけ着実に成果が上がるので、やりがいと達成感が味わえます。それはとても幸せな生き方です。もちろん、「本当にしたいこと」をしていればすべてが順調なわけではありません。むしろ、たくさんの困難や恐怖に直面することでしょう。けれども、そのひとつひとつに真正面からぶつかっていけば、その都度自分が大きく成長していくのを感じることができます。「しなければならないこと」をしているときには、エネルギーがどんどん消耗していきますが、「本当にしたいこと」をしているときには、逆にますますエネルギーが湧いてくるものなのです。 人は自分の身の安全を守ろうとするときに「しなければならないこと」を選択しがちです。確かに、「しなければならないこと」を優先すれば、社会的な立場や経済的な安定は守れるかもしれません。「本当にしたいこと」を優先するのはある意味では大変危険な賭だと言えるでしょう。それは、実はとても勇気がいることなのです。けれども、もしも人生に行き詰まったなら、思い切ってやってみる価値があるのではないでしょうか。 人は本来、冒険するために生まれてきたのだから。 2003.9.30
2005.06.27