9/16:有加筆:
9/16:有加筆:このスレッドの継続分にPCでは毎日加筆しているが、このところ加筆した分の一部・・・あちこちに加筆するので、その中の数か所・数パラグラフ(数ブロック)・・・この「加筆形式#3」は、量がかなり多くなったので、ここに載せるには、(たぶん)9分割しないと納まらない──容量制限があるので──。ほかのサイトにもアップロードするので、総計で手間と時間がかなりかかる。そういうことなので、当分、加筆した一部分を載せることにしよう。その前に:・・・なまけ中・・・ナマケモノ中学校の非常に優秀な生徒・JK・・・ナマケモノ中学校のナマケモノコンクールで優勝・JK・・・本論は世界初であって、今までにだれも唱えたことのない論であり唯一無二であって、その仮説体系そのものにかかわる文献も皆無である。本原稿中の概念や「たとえ」そのほかは、正確・厳密ではない。記述においてもそうである。本原稿は雑記であって、間違い、いいかげんなところ、訂正すべき個所が多い。重複も非常に多い。「対象や在り方」をひとつに限定したような記述をしている個所たちについていえば、「対象や在り方」が複数である可能性もある。つまり、そこでは他の可能性たちもある。書き込みの不足している個所たちもある。誤解を招く記述もある。矛盾している個所たちもある。整合性がとれていないところもある。文・文章自体にも間違いがあるところもある。本テーマについての科学的能力のない者の噛みつきを禁ずる。とにかく揚げ足をとってはならない。ケチをつけてはならない。それらは傷害罪に当たる。引用元の明記なしに、自分のもののごとく用いたら(盗用)、あとが大変なことになるのはわかりきったことである(引用元を記せば使える)。「ここは公であり、衆人監視・環視の場である」茂木さんのクオリアマニフェストから言ってもそうである。加えて「ネット世界も公であり、衆人が監視・環視している」本理論体系の理解を完全なものに向かわせるには、全部を読むしかない。複数の仮説がひとつの体系をなしているし、今までになかった概念が複数からまっているので、そういうことになる。 心脳科学(仮説) 題目と説明正式題目:「心・意識・脳を総合したモデルとシステム明細をもつ、科学的で自然工学的な仮説sの体系なる理論」別の題目:「心脳工学(仮説)」 「意識工学(仮説)」 「心・意識・脳の科学(仮説)」 「意識の科学(仮説)」 「心の科学(仮説)」 「心工学(仮説)」 「心・意識・脳の自然工学(仮説)」 「意識・心・脳の科学(仮説)」(仮説は複数である:仮説=仮説たち=仮説体系=仮説たちの体系)本原稿は研究途上にある雑記である。ある程度正確できれいに整えたものの、構成が不十分であるし、整合性がとれていない部分たちがある。重複も多い。かん違いや間違い、未熟さやケアレスミスなどもある。ただし、内容においては、今の段階で必要なものはほとんどすべて盛り込んである。また、タイトルの「システム明細」についていえば、まだ不完全だが、仮説上の自然工学的な数学的枠組みは提示できている。本仮説体系の完成:2009年頃までに:by西山浩一(世界人、春楽天)本書の原稿の一応の書き上げ:2012年6月by西山浩一本書の原稿の加筆・推敲・校正:by 西山浩一本書の原稿の発案・構想・構築・執筆者:西山浩一(C)本原稿と表紙絵の著作権者:西山浩一心脳科学研究所(本原稿は、400字詰め原稿用紙換算で約1000枚の分量がある)本原稿は日本国著作権法ならびに国際法によって保護されている。本原稿のすべての著作権は心脳科学研究所(西山浩一)が保有している。日本国著作権法ならびに国際法は、用紙書面による著作権者の許諾なしに、本原稿を複製ならびに転載することを禁じている。本原稿からの引用の際には、本原稿名を記すことを要する。この「加筆形式#3」は、量がかなり多くなったので、ここに載せるには、(たぶん)9分割しないと納まらない──容量制限があるので──。ほかのサイトにもアップロードするので、総計で手間と時間がかなりかかる。そういうことなので、当分、加筆した一部分を載せることにしよう。9/16:有加筆:このスレッドの継続分にPCでは毎日加筆しているが、このところ加筆した分の一部・・・あちこちに加筆するので、その中の数か所・数パラグラフ(数ブロック)・・・・・・以上、「数学とは何か」、「数学のもつ論理・本質・規則法則性など」「数学と自然科学の関係」、「自然科学において数学を用いて行う内容についての骨格・概観」、「なぜ自然科学の分野で物理数学などが適用できる――使える――のだろう? という謎と設問への答え」などについて述べてきた。で、他のところ数か所で、既に、自然言語についてのある程度の概観を記している。そこから、自然言語と数学的言語との間の関係について追究してみよう。まず、自然言語も数学的言語もともに心器における心的内容情報スペクトルの連続体の中に、「または」あるいは「かつ」、意識器における経時変化波動モード意識内容h(t)の中に、存在する、といえる――任意の人についてそういえるということはないが、すべての人間を総計してまとめて考えるとそういうことがいえる――。で、自然言語と数学的言語は、ともに言語という範疇にある、と表現した中(上)で――その定義と名づけ方は理に適っているだろう――、それぞれが一部を占めている――集合のようなものを考えて――。自然言語の方が内容において広く深い。当然、それは人間的である。数学的言語は、量的で抽象的な操作を行うことに長けている。それは、定性的というか人間的な対象については、「枠組み的・抽象的・形而上的」にしか機能しない――いや、人間的な対象については機能しない領域が広く深い――。その中でさらに・・・自然言語と数学的言語の包含関係は、それらの範囲をそれぞれ円で表して円の一部が重なっている、というところだろう。さて、より深くそれらに迫ってみよう・・・自然言語の舞台・・・自然言語を扱う人間においては、現実として一生を過ごすところにおけるさまざま――生まれ~境遇~個人的属性の種々さまざまもろもろ(具体的には過去に詳しく記している)~家族~親戚~友人・知人~団体~社会~国家~外国s~世界など――。数学的言語の舞台・・・数学的には、抽象的空間・フィールド、など。言語などにおける論理(駆動力・発展力・進歩進化力ともなる。それとは逆に働くこともある。質の対生成ともつれ、そして質時間回帰である。・・・自然界の法則も駆動力の一種をもつ)規則(論理~関係性と大きく関係がある)法則(法則は、原理的・本質的要素が最高に多い高い。論理と大きく関係がある)(・・・直前に述べたように、自然界の法則も駆動力の一種をもつ)関係性(論理と大きく関係がある)数学的言語:枠組み形式規則関係性量数字記号(その世界の実態は、離れた上に述べたとおり)数学的言語には、具体的に意味・内容(人間的な、人間が生活していく上で必要な、あるいはそれ以上の)を表す実態がない舞台設定は自然界自然言語:日常生活意味内容本質意味・内容に記号(文字、音声、手話、点字、絵文字・アイコン、本来の意味での記号、など)をあてる文法規則(枠組み・形式、という一面ももつ:文法・規則)概念観念感じ・イメージ自然言語には、具体的に意味・内容(人間的な、人間が生活していく上で必要な、あるいはそれ以上の)を表す・含ませる実態がある舞台設定は人間の世界それらふたつの言語の違い:自然言語における舞台は人間と人間社会~世界である。数学的言語における舞台は自然界~心器なるフィールドである(自然言語の世界の多くは除かれる)。まず、そこが異なる。つぎに、それら言語を構成する単位(単語または単語のようなもの)のもつ意味・内容が異なる。それは、「人間や社会にかかわる意味・内容」と、「単なる値(数や量)や、それに変わる記号」の違いである。自然言語を用いること、その他において・・・心器は意味・内容がわかる心器は理活をも行う意識器は意味内容・そのほかの心的内容を意識し味わう・意識内容として・・・今までの流れから離れて、ここからでてくる結論のひとつとして・・・外界(意識のそと)にはなにがあるかわからない(既に何度か述べている)・・・・・・一方、数学的言語については、心器にはいくらかの意味内容はわかるが、方程式を解いて解を求める過程については、既に述べたような実態にある。・・・方程式を解く過程についての内容は、心器における心的内容情報スペクトルの連続体の中にも、「または」、あるいは「かつ」、意識器における経時変化波動モード意識内容h(t)の中にもない?・・・コンピュータで、方程式を解くばあいに関していえば、コンピュータには意味も内容もわかっていない。たんに機械的に働いているだけである。・・・ついでに・・・コンピュータには意識もない。・・・重複を含めて・・・つぎに、それらふたつの言語のもつ「規則(論理・規則・関係性)」について検討してみよう。自然言語:文法は決まりきった・わかりきった規則をもつが、言語の運用(日常会話、仕事上・交渉上の言語活動、あらゆる言語活動など)においては、その逆であり、決まりきった・わかりきった規則をもたない。かろうじて、統計をとってパターン分けすることぐらいしかできない。・・・人工知能の研究が参考になるが、人工知能は自然言語のもつ「意味・内容」を理解していない。単に数学的~統計的に処理しているだけである。数学的言語:決まりきった・わかりきった規則をもつ。融通がきかない。融通をきかすには場合わけ・条件づけなどを行う。さて、自然言語についてのある程度の概観は既に何度か記している。さらなる詳細については、心脳科学(仮説)と質の科学(仮説)の中にある。・・・重複をふくめて・・・自然言語という存在は、遥かなる太古に、まずは、人間が生活していく中で必要なコミュニケーションのための道具として生まれたと思われる。そこにおいて、初めのうちは単純で簡単な言語と言語活動があったはずである。時とともに、それら「言語と言語活動」は高度化していき(高度化とだけ記すとプラス面だけを見てしまうが、高度化の反面としてうさんくさくなる・弊害をもつ、などの実態が生じる――それは質の対生成と質時間回帰の一種である――)、遊び、交渉(外交をも含めて)、文学や芸術、学問(そこは数学的言語をも含むが、数学的言語と自然言語の関係については既に述べたとおりである)、思想・哲学(学問に含まれるが)、産業、社会活動、マスコミ・メディアの活動、外国・世界との交流・外交(既に述べたが)、などの実態をもつまでに至った(現在に至った)わけである。そこにおいて重要なことは、人間の心脳が自然言語を生みだし、それを発展させ、現在のような言語~言語活動実態に至ることのできる潜在能力をもっていた、ということだ。(・・・なんらかの知的な存在の導きもあったのかもしれない・・・この言及は、無限ループに陥る・つまりそれらの知的存在の言語はどこから来たのかという謎だ。それが無限につづく。生物の発生と進化についても同じことが言える・既に述べている《そこでは無限ループについては弱く書いているが》)。その過程で人間は数学的言語をも生みだしたわけである。ここで繰り返すことをしないので、自然言語、数学的言語、それらの関係について、上述を再読していただきたい。ここで強調すべきは・・・「人間の心脳がもつ潜在能力」「自然言語は具体的な意味・内容をもつ(人間的な。人間や社会にかかわる)」「数学的言語は具体的な意味・内容(人間的な。人間や社会にかかわる)をもたない」「数学的言語は、人間の心脳のもつ、潜在能力、とその発現、から生まれた。そこで用いられた人間の体験~イメージ能力~発見能力~抽象化能力~事務的能力~さまざまな能力、など、も結局、人間の心脳が働いてのことである、という実態にある」などがあるだろう。まとめると・・・数学的言語:形式的・規則的・「骨格をもつ」。ただし、その形式・規則は具体的でない――人間的でない――内容・中身をもつ=変換規則など。自然言語:人間にかかわる内容・中身をもつ――それは「肉・内臓」と比喩できる。それとは別に、形式的・規則的な要素も自然言語は上位概念実態としてもつ――それは「骨格」とたとえることができる。「骨格」と「肉・内臓」、とたとえることができる実態がある。うしろに記している「さて、ここで、創作~新しい何かをつくりだすことについて考えてみよう」というセクションは、以上を理解する手助けになる。そこにある、「人工的になすばあいと人間が普通に行っているばあいの違い:」がそれである。大雑把に言って、「人工的になすばあい」が数学的言語について言及しており、「人間が普通に行っているばあい」が自然言語について言及している、といえる。もちろん既に述べたように、数学的言語にも変換規則などの「中身・内容」はあるし、自然言語にも「文法・規則」はある。しかも、数学的言語の「変換規則など」と、自然言語の「文法・規則など」の間には共通性「も」ある。しかしそれは「共通性」であって、」すべてが同じとは限らない。コンピュータのプログラム言語を考えれば、そこについての理解の参考になる。・・・さらに・・・数学的言語にある「規則に基づく、演算・計算、方程式の解を求める過程」は、自然言語では追えない~理解できないことが多い・・・その過程が、心器~脳での心的内容情報スペクトルの系に、あるいは・またはかつ意識器でのエネルギー波動モード意識内容h(t)の中に現れる・表われるかどうか。そこも追究していこう。・・・時と手順を追って次第に自然言語と数学的言語の関係の本質にも迫ってきていると思う。もちろんそれは、本スレッド全体と、その他で筆者が研究し書いた内容、それら全体の中にある・・・(加筆)以上に関連して次のようなアイディアがでてくる・・・心脳で扱われる「心的内容情報スペクトル要素」の数は、種類(周波数が異なれば種類が異なる、という意味での種類)についていえば有限だろう。しかも、それら種類がすべて用いられているのではないだろう。そこで、こういうアイディアがでてくる「心脳で扱われている情報スペクトル要素と、心脳で扱われていない情報スペクトル要素を併せて用いて心脳活動と理活を行えば、現実の心脳が生み出す心的内容の世界よりさらに広い世界が生み出せるだろう」。それは現実にはなせないわけであるが、数学的にはなせる。ただし、そこからでてきた新しい世界を心脳は意識し味わうことはできない。たんに数学的世界として認識し意識し味わうことしかできない。(加筆)ここで、自然言語研究の参考として・・・心理学精神分析学社会科学言語学(含・文法学)・・・それらの分野sにおける研究内容も、それらにおいて行っていること研究自体も、心器~脳における心的内容情報スペクトルの系の中に、さらに、経時変化波動モード意識内容h(t)の系の中に、入っている・含まれる。そういう実態にある・・・もちろん、数学的言語も、そういう意味においては同じである・・・。そこでは、具体例sを集めるそこから帰納して原理的な命題(規則・関係性・論理を含む)を得るそうではなく、単に推測で原理的な命題を打ちだし(経験、学習、などと、人間の心器~脳のもつ働きなどによる。直前のそれと重なる部分がある)、それを具体例sで検証それら原理的な命題(規則・関係性・論理を含む)から演繹敷衍展開して具体例になりそうなものsを挙げ、具体例sと比較し結論を得るさらに、以上にある具体例sの並べ上げから、それらをパターン分けするそこから帰納して原理的な命題(規則・関係性・論理を含む)を得る(――これはさらなる発展系とでもいおうか。もちろん後退する面も併せ持つだろう――)(加筆)・・・ここらで休憩タイムドリンクブレイクを・・・ゴクゴク・・・・・・ここで心脳科学(仮説)にとっても質の科学(仮説)にとっても、重要なので次のことを記しておこう・・・上述の物理学的「対象領域~対象」としては、物質・エネルギー、時空、などである。で、一般相対性理論では、物質・エネルギーの存在が時空という場の性質を決める、ということで、時空という抽象的であるが実際に在るとするところの実態に対応する内容を記述している(――今までのところそう言える――)。いってみればそこでは、「物質・エネルギーに伴われる(物質・エネルギーが伴う)なんらかの実体・実態」という存在があるのだ、と認識することができる。一方、量子力学では、「物質・エネルギーを対象」として、「量子という粒子性と波動性をもつなんらかの存在実体・実態」を導きだしている。粒子性の方は物質、波動性の方は――エネルギーが担う?――抽象的な量子力学的確率の実態世界である、という結論になっている。場の量子論では、素粒子(量子。粒子と呼ぶことも多い)sおのおのは、それぞれ専用の場sの励起状態(エネルギーとそれに伴う・伴われる波動の世界)(現在のところ場には複数の種類・範疇――17?――がある)であり――したがって、粒子を波動で記述できる――、励起状態がなくなれば、(素)粒子の存在もなくなる、としている。そこでは、場というなんらかの存在実体・実態がまず在って、そこから光子、素粒子~粒子~物質が生じる、という舞台・モデル把握~記述体系になっている。電磁場の理論も同じような舞台・モデル把握、記述体系になっている。以上から導きだせるひとつの結論は――ここでは場の量子論は除いて・・・物質・エネルギーとそれが構成する物質・エネルギーの組織、という「実体」があれば、それに伴われるなんらかの「実態」というなんらかの存在がある、ということである――(それは相補性による、という表現をあててもよさそうだ)――。そこには場も含まれる。で、場の量子論においても、物質・エネルギーとそれが構成する物質・エネルギーの組織、が可能性といて潜在している(足しあわされて隠れている――プラスとマイナスが足しあわされて隠れている。あるいは、正と反が足しあわされて隠れている――)のが、「場」であるという理解・認識は正しいだろうから、場の量子論をもそこに含めていいと思われる。・・・結局、物質・エネルギーとそれらが構成する物質・エネルギーの組織、が可能性として潜在している(足しあわされて隠れている)ところの「場」と、「場」のなんらかの要素成分sの値~状態~性質(たとえば一般相対性理論はそこに着目する――時間と空間――)、そこに生じる波動、そこから生じるなんらかの粒子やエネルギーなどとそれらの相互作用・相互関係、そういった把握・理解・認識が、現代物理学に通低していると言えるだろう(――一般相対性理論関連では、重力子はまだ発見されていないが――というか、重力子は場の量子論の世界に存在すると表現記述していいだろう――一般相対性理論と量子論とは水と油のごとくなじまない――)。心脳科学(仮説)では、「心」と「心的内容」というなにかは、「心器というフィールド(場)」と「脳」、そこでの「情報量子(仮説としてたとえば赤外線)」による「情報スペクトル要素と情報スペクトルの世界」である、と主張している。心脳科学(仮説)では、「意識」と「意識内容」というなにかは、「意識器というフィールド(場)」とそこでの「精妙にして極度に複雑なエネルギーの経時変化モード・パターン」である、と主張している。少し上の内容からいって――現代物理学はさまざまな種類の場sが存在すると主張している――、そこ心脳科学(仮説)に無理なところはないだろう。・・・要するに、心脳科学(仮説)について述べた上記のそれらは、「なんらかの場の存在と物質・エネルギーに伴われるなんらかの実態の世界である」と主張しているわけである。・・・ここで、上述にある重要な個所を強調すると・・・現代物理学はさまざまな種類範疇の多くの場sが存在すると主張している――多くとまではいかないが、さまざまな種類範疇のいくつもの場sが存在する――現在のところ17?か――と述べているわけである。そして、必要があれば、「新しい場」を仮定設定することを躊躇しない。積極的に設定する。「心器」と「意識器」についても、それぞれの場を仮定設定することは物理的に絶対的な要請の中にあるのである。そういうことで、「心器のフィールド(場)」、「意識器のフィールド」、という存在があってもおかしくはない、といえるのである・・・・・・。ところで、「心器の場」について考察すれば、興味深い内容がでてくる・・・「場の量子論」を参考にすれば、「心器というフィールド」は「量子を発生させることも消滅させることもできる」、という可能性がでてくる。しかも、「心器」は「理活能力」と「自由意思(訓練・鍛錬の末にもつようになる)」をもっている。そこから、ほかのところで述べた、興味深い内容を引きだせる・・・SF・・・ここには書かないが・・・・・・ちなみに、超弦理論を心脳科学《仮説)に適用することの可能性については、既に述べている。・・・参考・・・心器と意識器のフィールド(場)と、それらの特殊性――それらは普遍的であるはずだが、ほかの場sと比べると違いがあるという意味で特殊――については別のところに記している。・・・・・・ちなみに、先に述べた物理数学と数学の中で、現実において目的とする領域~対象に適用する(適用できる)数学というのは・・・これは再掲になるが・・・現実における領域と対象に対して適用する(できる)数学は「すっきり」「扱いやすい」「単純」な形態として構築されている・可能性を絞り込んでさまざまな条件をつけて。そうでないと使えないという現実がある。そこを越えた、複雑で使えない抽象的なだけの物理数学は、「この領域は、記号で表すと、こう表現できる」と言っているだけであって、現実の実態には対応していない――ここは表現がきわめて難しい:1・実際に対応していない。2・対応しているか否か知性にはわからない。3・対応していても解を求めることはできない。至高の知性においては、解を求めることができる? という可能性と、至高の知性によっても解を求めることはできない、という可能性がある。4・仮に近似的に解を求めることができたとしても、認識理解不能な要因によって、あるいはなんの要因なしに、その解は時間とともにズレていく(ズレていかない可能性もあるが)。・・・・・・上にさまざま加筆したので、以下これは削除すべきだが、一応残しておこう・・・物理数学についてもあれこれ述べたが、ついでに記すと・・・そこから外れている数学の世界が、現実との間に関係がある、という可能性もあるだろう。そこらはややこしすぎることになる。そこをなんと表現したらいいのだろう。現実の中には、単に、数学で記述できない領域もあれば、複雑すぎて人間には扱えない数学に対応する領域もある、というしかなさそうだ。ここにも興味深いテーマがある。ちなみに、アインシュタインは「同じ対象を扱っているところの複雑な理論とシンプルな理論があったとすると、シンプルな方が正しい」といったようなことを言ったと記録されている。それに対してボーアは「シンプルということは正しさの根拠にはならない。同じ対象領域において、まちがった・現実に対応していないシンプルな理論と、正しい・現実に対応している理論がある可能性がある」といったふうに返したと言われている。・・・以上、参考・・・不等式・・・図形的・幾何学的に扱うもの・・・それを数式に対応させることができるケース・・・変な・奇妙な数学による・・・その他・・・(加筆)・・・ちなみに・・・・・・幾何学というわけのわからない悪趣味なネーミングの漢字語は、中国語からの移入語である。・・・「悪趣味」といっていいのにはこういう経緯があるからである。少しあとに記すその事実の系を筆者が知る前に、それら漢字から意味をとろうとしてもまったく解読不可能だったという事実があるからである、と・・・ で、そのあとに知ったことであるが・・・中国では、その昔、幾何学の外国語の発音を、音としていちばん近いものとしてそう当てたんだそうだ・・・うろ覚えだが・・・。それをそのまま移入するとは、日本人にとって、意味不明で、なんという悪趣味な、ということになる――音読み(中国語的読み。しかも漢音、呉音などがある。おまけに実際の中国語での音とはかなり異なる)とはいえ、日本語と中国語ではほとんどまったく異なる発音だ。そういうのは困る。・・・ちなみに、仏教の経典にはそういうのが多い・・・ただし、仏教にせよどんな宗教にせよ筆者は、それらのもつ良い面については嫌悪感は当然もっていない。ただし、どんな宗教にせよ宗教が現実として運営されていくと、まさにさまざまで複雑で錯綜した「現実」「実態」が生じていくが・・・(そういう領域については筆者は書かない)。それについては歴史を見渡せば一目瞭然・・・どんな宗教も、それぞれの時代、それぞれの地域で、人びとを救うために生まれ成長し変遷していった――人間には必須な存在だ・・・しかし後になるとさまざまな・・・以下略・・・。・・・宗教についてはネット上のほかのところにも書いている・・・。・・・ほかにも、さまざまな専門分野sにおいては漢字語を特殊に読ませるという傾向もある・・・その他にも難しくしている要素sは多い・・・・・・「自分の特別な専門分野がシロートにかんたんに解ってたまるか、こういう解りにくい漢字語で、ありがた味と神秘感と難解感をもたせるのが絶対に有効なんだ。解りにくいほど素晴らしいんだ。解らないほどヤッホーワンダフォーなんだ。頭の中にごちゃごちゃとわけのわからない観念・心的内容が無意味にムダに詰まって漂っているのが凄いんだ素晴らしいんだサイコーなんだ。このわけのわからないゴチャグチャとしたふにゃふにゃ論がわかる人は絶対にどこにもいないのだ~~GAHAHAHAHA~~・・・(――以上、これは明らかに100パーセント単なるジョークであって、そういう実態はどこにもまったくありません、念のため――)」・・・という気持ちはよくわかるが・・・いや解るような気はするが・・・・・・いや・・・・・・・・・少し前に戻って・・・そういった「漢字語だけ」について言えば・・・とはいえ、外国語を覚えるばあいは、すべてそういうことになるから、まあいいか・・・・・・いやいやまてよ、日本語で、漢字を用いるばあいは、漢字自体が「匂い立つ意味――色までついて――」をもっているから、やはりそういうのは困る、ある意味有害だ・・・・・・・・・そこは、ねじれてゆがんでヒン曲がったクオリアの世界だな・笑・・・そこでは経時変化波動モード意識内容もひずみだらけだろう・笑・・・そういうのが積み重なればノイローゼや病気の原因にもなるんじゃないかな(ここは意識器から心器~脳へフィードバック在り、というたちばにある)・・・心脳も大切にしたいものです・・・・・・・・・先に述べた『法則性・規則性・関係性』に関して、少し補足しておこう・・・1・それら『法則性・規則性・関係性』は結局、決まりきった・解りきった内容をもつ。だからその『法則性・規則性・関係性』内にある領域においては、将来の予測はある程度立つ。2・しかし、先に述べた「ズレ」によって、それもかなり無効化させられる。3・さらに、『法則性・規則性・関係性』のない領域は広く深く大きいので、そこにおいては、なんの予測もできない。・・・つまり・・・機械論~運命は決まっているという主張~自由意思・意志はないという主張、それらの崩壊・・・以上、「2・」と「3・」のケースにおいて、そこから進むべく在り得る可能性を考えてみよう・・・それは統計と確率の世界である。確率は基本的には統計からだすべきではあるが、理屈や理論からも推論できるケースもある。その後者は実際に統計をとって確認・検証するのが王道だといえる。しかしそれは不可能なケースsもある。そのばあい、理屈や理論での結論を用いるしかない。そこでは、これこれの確率でなになに、あれそれの確率でどれそれ、そういう確率のもとに将来がどうこう、・・・などということになる。・・・本論では、自由意思・意志についても研究しているのでこれも述べておこう・・・ここで、鍛錬し鍛え上げた本物に近い~本物の「自由意思・意志」においても、そういうふうに、統計・確率的にその自由意思の発揮度を述べることは可能だろう・・・「こういうばあいは、こういう結論を70パーセントの確率でだす」、「あれそれのばあいはあれそれの結論を80パーセントの確率でだす」、・・・などと。・・・それはまるで天気予想・予報のようだ。天気予想のばあいは、「もちろん統計によって得たパターンsも参考にするだろうし?」、「言い伝えや予想に関しての熟練者の勘も活用されるだろうし?」、「大気の流れとそこにおけるさまざまな要素sについての近似的なモデルや関数のような数式があるようだし――そこから超高速なコンピュータで予想もできる」、という実態s(――その中のどれか、か、どれかs、か、全部――)のもとにあるのだろう・・・・・・ここで滑稽に滑って転調して・・・ある特定の人のなにかについての決断に関して、「その決断予報がでました。あの人物がこれこれに関する決断をなすのは、何月何日何時ごろで、なんちゃらかんちゃらという決定をなし次の日の早くに実行します」、などという予想予報のだせる時代がやってくる可能性もあるかどうかまったくわからない・・・いやあるだろう・・・しかし外れることが多いだろう・・・それを元になにかを企んでもほとんどすべて失敗するだろうw・・・。・・・さてヒマジンのイマジンによるヒマワリなつまりヒマな話しの前に戻って・・・つまり、そこでは統計はとれるので少ない試行での確率はでてくる。とはいえ、自由意思・意志による決断に際して集めるデータsや分析~分析内容~結果s、誰かに相談するなら誰にするかという問題、そのほか必要なさまざま、などの推測や選び出しという作業は万能というか完璧というか完全ではありえず、かなりいいかげんな結果しか得ることはできそうにない(これはちょっとヘンだ→かなりいいかげんな結果を得ることしかできそうにない)・・・これは、第三者が統計をとるばあいの話しである・・・本人が自由意思・意志を発揮するばあいの手続き~進め方も、項目sとしては以上と同じようなことを為すわけだが、このばあいは、本人が自由意思・意志で選んだり集めたり分析したり誰かに相談したりして結論をだして決断するのであるから、先のそれ「第三者による統計とり」とは異なる・・・。おまけに、何者かによってそういった統計をとられていそうだと感づいたら、その本人の自由意思・意志が「シャクに障るから統計結果による確率をひっくり返してやれwww」とばかりに、統計を乱すこともありうるwww ・・・それを、その統計の変化とみなすことも可能だが・・・ややこしい・・・ややこしすぎるところには「完璧な」規則性法則性などはないだろう・・・(それは運命破りのパラドックスに類似した問題だ。運命破りのパラドックスの解明と解決に関しては既に述べている)・・・。ということで、自由意思・意志は、統計・確率で「ある程度」論じることはできる。しかし、さらにいうと、『自由意思・意志の原理』についてどんなに追究していっても、その原理は「『自由意思・意志』そのものである」、という結論・結果しかでてこないだろう・笑・・・それについても既にさまざまに述べている・・・・・・。・・・ちなみに・・・自由意思・意志は、個々それぞれの心器によって、その「理活内容」や「理活傾向(心的傾向。精神性)」は異なる。なぜそうなるかというと、もともとの心器sはどれもが同じなのであるが、それぞれの心器がある脳の特性や身体の特性~その人物の境遇・被教育学習過程、自分で意図して自己教育をどの程度やったか、などなどによって、自由意思・意志の発達程度とその中身が異なってくるからである。(・・・ここらの冠詞の用い方はむずかしい、そういう個所sがある・・・)それをたとえて言えば、ある意味、コンピュータのプログラムの違いのようなところがある、といってもいいが、コンピュータには自由意思・意志はないし、もたせることはできない。もちろんコンピュータには意識もないしもたせることもできない。当然、ロボットにおいても同じである・・・ある範囲で人間のように見えるロボットが、こちらの動きに反応して眼sにあたるカメラsをもつ顔をこちらに動かす、こちらの質問に、まるで人間と同じようにこたえる、こちらに人間のように質問してくる、握手に応える、などという実態があるとしても、そのロボットには「心」も「意識」もない、「心器」も「意識器」もない。(参考:・・・そこに「意識が生じる」と言う研究者の方々がおられるが、それは「意識」の定義が、本論におけるそれと異なっており、本論においてはそれは「意識」ではない。同じ意味内容で、もちろんそこには「心」もない・・・)。「知性」については定義次第だが、人間のもつ「心器」による「理活」にあたる論理活動はなせない。人間のもつ「心器」と「意識器」と同じ「フィールドs」をもたせない限り、そういうことがいえる・・・。・・・・・・ここに、人間以外の動植物において、「心器」と「意識器」はあるかないか、という謎と設問もある・・・さらに物質にはどうか、という問題――謎と設問――も一応載せておこう・・・・・・・・・「自由意思・意志」についてもうひとつ述べておこう・・・量子論・量子力学が、自由意思・意志があることの証拠(――必要条件だが――)となる。ことばを換えていうと、量子論・量子力学は、「自由意思・意志」があることの担保となっている、といえる(――それは必要条件であるから、それだけでは不十分ではあるが――)・・・。で、そこには量子論・量子力学的確率があるわけである。その量子論的確率は量子情報の一種といえるだろう。任意の個人(どの個人についていっても。すべての個人の各々)における「心器」のもつ「自由意思・意志」とその量子論的確率との関係はどうなるか?任意の個人の「心器」においては、その確率は働かない。その確率は外部に捨てられる・放出される――そう予想される。さて、外部に捨てられたその量子論的確率はどうなるか?外部に捨てるといっても、「(1)なにかと量子もつれがないと捨てられない」のか、それとも捨てられたその量子情報は「(2)場の中に潜在するようになる」のか、「(3)場の中でなにかと結びつく」のか、「(4)そのほか」なのか、どうなのだろう?ここでは一応、「(2)場の中に潜在するようになる」、としておこう。いずれにせよその確率は、消滅しない限り、他の個人のだれかの心器に働きかけるのだろう。それは、「質の性質、質の対生成・対消滅、質時間回帰」の中にある性質である。(加筆)以上に関連して・・・保存則があるということは、保存則におけるなにかの対象が見えなくなっても、それは対象の場の中に潜在するようになるか、ほかのなにかに合体(もつれをも含めて)するか、なのだろう。(加筆)少し前に遡る・・・そこでは、心器の対称性――どんな人によっても心器は同じであること――がなくなってしまうが、心器の対称性はハードウェアと初期状態だけであって、人間sの間の心器sの対称性は意識器の質時間回帰によって時間を組み込んだ実態において遂行されるというか保持される。・・・さらにいくらか前にもどって・・・以上のように物理学では(も)数学を用いるわけである――もっと加筆すべき事項sがあり、整理も必要だが――。それさえ解れば・・・モチは餅屋さん、ケーキはケーキ屋さん、食べるのは筆者、オリンピックはアスリート諸氏・専門のスポーツパースンs、観るのは筆者、というのは理に適った常識なので、適材適所、学問研究においてでも、すべての分野の研究や学習を自分だけでやる必要はない、という結論に至る。いちいち何から何まで自分でやることは不可能なのは明白でもあるし。すでにあるものs、でき上がっているさまざまsを、活用・利用しないと、前に進むことはできないし、そういった利用・活用はすべての人間があらゆるすべての分野で無数に行っている(・・・自由意思・意志についての解説においても、それに関連した内容を既に述べている・・・)。そういうことで、何かの研究をなすばあいでも、その研究に必要なほかの分野s領域sについては、その研究に必要な程度(かそれ以上)に学べばいいわけであるし、人間にはそれしかできないということをここではっきり認識したということになる。筆者も、心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)などの研究においては、そういう姿勢・やり方で進んできている・・・そういったことは過去に何回か述べている・・・。自然科学と数学との関係や、数学を自然科学において用いる意義・意味、それらの実態の概観・俯瞰図鳥瞰図などを、既に上で把握しているわけであるから、上述の姿勢で、どんな研究においても気楽に進めるというものである。(加筆)・・・ここで、コーヒーブレイクのひとときを・・・・・・ここでドリンクブレイクのふたときを・・・さてここからしばらくはSFの世界に遊ぼう・・・意識の外界(意識の外(そと)。あらゆるすべての物質世界。人間の肉体を含めて)――既述したように、そこには何があるかわからない。人間の心器は外界から心的内容情報スペクトル(→h(t))の元なる情報スペクトル要素~情報スペクトルを受けるのみである。そこに何があるかわからない、これこれがあるとはいえない。強いていえば・・・情報スペクトル要素~情報スペクトルを取り出せる情報のデータベースがある、としかいえない。で、人間もそのデータベースの中のデータである、ということになる。心器と意識器はどうか?(1)そのデータベースの中にある(2)その中にはない。範疇の異なる存在であるそのデータベースの中には時間も空間もない(潜在はしているが)h(t)展開して初めて時間も空間もあらわれる。1)意識器においてのみそうである2)現実もそうだ二重スリット実験:そのデータベースの中には時間も空間もない、ということで説明がつく。h(t)展開して初めて時間も空間もあらわれる。EPRパラドックス:同じく、そのデータベースの中には時間も空間もない、ということで説明がつく。h(t)展開して初めて時間も空間もあらわれる。心器と意識器における情報構造から上のことがいえる。以上において重要なこととして・・・外界・物質世界(意識のそと)が、人間に見えているそのままであるとみなすと、「二重スリット実験」も「EPRパラドックス」も、タネのないマジックや宗教における奇跡など(既述)も、解明できないし説明がつかない。・・・(・・・ということは、特定の条件下・特定の領域で相対論は成り立つ、ということになりそうである・・・・・・「二重スリット実験」については、問題なく説明がつく・・・・・・「タネのないマジックや宗教における奇跡など」についても、問題なく説明がつく・・・)で、心器はそのデータベースから情報を受ける~取り出すわけであるが、心器がそのデータベースに干渉できるのだろうか?つまり・・・心器はそのデータベースを書き換えることができるかどうか?1・できる1・1・完全にできる1・2・部分的にできる1・3・ほんの少しの部分についてできる2・できない以前にも直前でも述べたが、マジックの中にはまったくタネのないものsがある。いってみれば・・・奇跡が起きているマジックsもある。ほかにも宗教における奇跡やそれに類する事象・事実などもある。それらについては、「非常に発達した心器~知性的存在」がデータベースを書き換えたと理解すれば納得がいく。とすると、心器~知性的存在は、そのデータベースの外に存在する可能性が高い、ということになるだろう。たとえば、人間が地上にあって、自分の服の襟首をつかんで持ち上げることができないように――人間はジャンプはできるが、それは地球との間で力~運動量のやりとりがなされるものの、すぐ以前の状態に戻るということである。それは一時的には書き換えが可能というたとえにもとれるが、すぐに元に戻る、と。参考:・・・心器~知性的存在が、そのデータベースの内部にある可能性を完全に排除するわけではないが――たとえば、コンピュータとそのプログラムにおいて、プログラムを書き換えるプログラムというものもあるわけである・・・ただしそういったプログラムを組むのは外部にいる人間であるが・今のところ・・・。・・・近年、脳のもつ機能~システムの一面を模したディープラーニングの手法が発達してきている。桁外れに組み合わせの数が多い囲碁においてですら人間の最強者を打ち負かすところにまで至った。しかしそれも基本~出発点は人間がなすプログラムにあるわけである・・・。さらに、ディープラーニングの手法によって、プログラムにたとえばモーツァルトの作品を学ばせ、モーツァルトの作品のような作品をつくることもできるようになってきているようである。くわえて、自動運転自動車、機械翻訳、さまざまな分析、などなどにも活用できる。繰り返すとしかしそれも基本~出発点は人間がなすプログラムにあるわけである・・・その人間は大自然が創った、と表現できる。そこには人間の自由意思・意志はない、と一応思われるが、・・・? 宇宙~大自然のなんらかの知性~意志・意思が人間を創り、そのなんらかの知性~意志・意思を人間が受け継いでいる、という可能性もある。・・・ここはテーマが置き換えられてしまった、「そのデータベースを書き換えられるか否か」、から、「自由意思・意志」の問題へと。で、その「自由意思・意志」がデータベースを書き換えることができるかどうか、に戻ろう・・・:以上、参考。参考から戻って・・・つまり、「1・3・ほんの少しの部分についてできる」なのではないだろうか。運命破りのパラドックス(それについても既述)もそこに属するのだろう。つまり、心器がそのデータベースを書き換えるということである。で、自由意思・意志で言動することは、そのデータベースに変化を与えることになるだろう?――言動が自由意思・意志によらないばあいとは異なってくる、と――。で、強大な自由意思・意志は、世界に変化を与えることができる(そのデータベースをなんらかに書き換えることができる)と言えそうである。ただし、質時間回帰則を乗り越えることはできない。少しは質時間回帰の流れに逆らうことはできるが(たとえとして、フラッター)、大きく基本的な質時間回帰の流れ(たとえとして、ワウ)には逆らうことはできない。その前者も結局質時間回帰する――つまり「いいとこ取り」はできない(――既述――機械的回転系をもつ音響機器などにおけるワウフラッターでのたとえも既述。・・・ワウとフラッターについて、どっちがどっちだったか忘れてしまった。ここでは、細かい変化をフラッター、大きな変化をワウとしている。それは似た要素があるので、たとえとして持ち出しているだけである)。・・・さらに考えられる可能性をつけ加えておこう・・・そのデータベースのデータではなくて、経時変化波動モードh(t)の段階で、それを書き換えるという可能性もないとはいえないだろう。・・・もうひとつつけ加えておこう・・・先に、外界・物質世界(意識のそと)には何があるかわからない、と記した。しかし、こう考えると、どういうことになるだろうか・・・「なにか」を見るとする。すると、その「なにか」の形状を認識することができる。次に、目をつぶって(つむって)その「なにか」に触ってその形状を認識するとする。それらふたつの認識はだいたい一致する、といってよいだろう。なぜ一致するのだろうか。その「なにか」を目で見て形状を把握した経験があるからだろうか。さらにはそれに先立って、人生を生きてきて、無数のさまざまな形状sの把握~認識を積み上げてきているからだろうか。で、視覚に関しては、経験がないなにかの属性(の要素)は把握・認識できない――臨界年齢までに経験していないとそうなる――臨界年齢と呼ぶ? ――だったか――、といったような知見~事実があったと思うが、少なくとも、赤ん坊は手で触って物の形状を把握・認識することはできないだろう――成長してある段階に達するまでは。ということは、触って物の形状を把握・認識するということは、心器と脳で、情報を組み立てて、それをなしている、ということになる――見ることによってなすそれも結局は同じだが――。以上からいえることとして・・・やはり、外界~物質世界(意識のそと)には何があるかわからない、というところに落ち着くのではないだろうか――ここは完全に自信があるわけではないが・・・・・・・・・・・・この後(あと)、その問題認識を数日間保っていて考えた結論・・・いややはり、触覚による形状認識においても、脳~意識のその時点までの経験・学習――視覚や触覚などを通じての――により貯えられたデータやデータ処理法を基に形状把握~形状認識の在り方・ソフトウェアを構築しているはずである。それによって形状把握~形状認識を行っている。よって、「やはり、外界~物質世界(意識のそと)には何があるかわからない」、という結論に落ち着く」と言える。・・・さらに言うと・・・外界――意識の外(そと)――にあるデータベース~データには、どの感覚――視覚を含めて――を用いても、同じ形状把握~形状認識に落ち着くデータが納まっている、ということでもある。しかも、それが、直近上の「脳~意識のその時点までの経験・学習――視覚や触覚などを通じての――により貯えられたデータやデータ処理法」と連動するように、この世界が構築されている、という結論に至る。・・・ここで、上述「脳~意識のその時点までの経験・学習――視覚や触覚などを通じての――により貯えられたデータやデータ処理法と連動するように、この世界が構築されている」というところの原理を考えてみよう・・・その原理として・・・この世界に存在する具体的な「あらゆるすべてのパターンs」は、現実的にも数学的にも無数にあるが、それらはそれぞれがいくつもの範疇に分類できる。で、「帰納からでてくる普遍――原理~規則~法則――と原理~規則~法則(たとえば物理数学的な)が近似的に一致する」「演繹からでてくる具体的パターンs(たとえば物理数学による)と現実のそれらが近似的に一致する」というところだろう・・・なぜならそれらは「近似的に含む」~「近似的に含まれる」の関係にあるしかないからである。この原理は、「なぜ自然科学の分野で物理数学などが適用できる――使える――のだろう?」という謎と設問への最も上のレベルでの解答ともなる・・・これに関してはより詳細に別なところに記している・・・(「まず、その要約を:」で検索すればでてくる。このパラグラフよりずっと前にある)・・・。ただし、物理数学で記述できない領域は深く広いだろう。(加筆)さて、以上の流れからいって、ここに哲学的な主張――名づけて「世界哲学」の一部――を載せるのは、理に適っていると思うのでそれをなそう。特に次元についていくつかの解釈をなしたので以下つながりがある・・・それは過去にあちこちに何度か書いたことであるが・・・以下の後ろの方はそれとは趣をかえている・・・まず、「この宇宙・世界に意識のある存在がないと、この宇宙・世界はないに等しい」という哲学的立場は有効である・・・この宇宙・世界そのものや、そこにおけるさまざまを意識し味わう存在がなかったら、この宇宙・世界はないに等しい、と。それに対して反論はいくらでもできる。しかしそういう立場は意味・意義がある。ついで、「よって、この宇宙・世界に意識のある存在はあるはずであり、実際にあった」となる。人間はそれに当たる・・・ほかにもあるだろうが・・・。さらに、「意識し味わう存在があっても、意識し味わう対象が皆無であれば、あるいは加えることの・時間もなければ、意識する存在はないに等しい」と言える。よって、「この宇宙・世界はあるはずであり、事実としてあった」と展開される。以上それらは同時に成立する命題であって、どちらかを先にしても意味~意義が減ぜられる。・・・以上について、「映画と観客」をたとえにして過去に何回かわかり易く? ・・・自画自ー賛・JK・・・書いた・・・。で、なにかの宗教の聖典では、天地創造において「初めに言葉ありき。その言葉が光よ在れかし・・・」などと言い放ち宇宙ができていった、といったようなことが書いてある(・・・筆者の記憶によれば・・・ここにあとで加筆→それはまちがっていた。なにかの創○記によれば「初めに神は天地を創造された。~~~~。神は光あれと言われた。こうして光があった。~~~~。・・・略記:そして言葉で次々と天地を創造していかれた・・・」といったような内容だった。それとは別に、なにかの新○○書のヨハ○の福○書に「初めに言葉ありき。言葉は神とともにあり、言葉は神であった」という文章があった。・・・しかし、以下記した内容に変更を加える必要はない、という間違い方であったのはラッキーだった・笑・・・しかしほんの少し加筆する)。それによると、宇宙開闢以前、そこには知性だけがあって、その知性の掛け声とともに・・・掛け声によって・・・宇宙の誕生が始まった、ということになる。その「知性」が「意識」をもっていたのかどうか、確認する術はないが、心脳科学(仮説)に則ると、「知性」と「意識」は別ものであるので、そこで場合わけして、ふたつのケースを検討してみよう。1・そこには「意識」はなかった、というケース2・そこに「意識」はあった、というケース「2・」であれば、宇宙・世界に先立って意識はあった、ということになる。しかし、そこには、無理がある。宇宙・世界がないのに、どうやったら「意識」と「知性」が存在できるのか。存在できるなんらかの存在があった、ということになる。それは、宇宙・世界の一部としか言えない。しかも、「意識」と「知性」も宇宙・世界の一部であるともいえる。そこでは、そのどちらが先に存在を始めたか、という謎と設問が発生する。ということで、少し前に述べたとおり、「以上それらは同時に成立する命題であって、どちらかを先にしても意味が減ぜられる」という結論にやはり至る。「1・」であれば、文字通り「意識はなかった」ということになる、しかし、なんらかの知性は存在していた、ということになる。それに関しては直近上「2・」であれば、で検討した内容と同じ経過をたどり同じ結論に至る。さて、以上その「ある宗教」の主張についての考察は、ここでは余技であることにしよう。ここで、本題に戻る・・・この宇宙と世界は存在し、「意識のある存在」もあった。そこに次元の話しを絡めよう・・・「意識ある存在」――ここでは人間としよう(その例外なる存在の可能性については既に何度か述べた)――がさまざまな対象sを「意識し味わう」ためには、「心器」が必要である・・・心脳科学(仮説)によれば(ただし、「意識器」によって共振し直接的に「意識」するという可能性もある。それについても既述している。心器での共振によって対象sを直接「認識」するという可能性も否定できない・・・ここでの「意識」と「認識」の使い分けに注目――それらの定義s・心脳科学における、から必然的にそう使い分けることになる。そういった定義sがないと心脳についての議論は(も)錯綜し混乱し不毛になる――ふにゃふにゃごちゃごちゃぐちゃぐちゃどろどろになる――。・・・で、それらの定義sは今までのところ、現実を正しく反映しているようである)。で、心脳が対象情報を処理するには、先に検討したとおり、現実の時空4次元のほかに少なくとも6次元が必要らしい。超弦理論でも同じく、現実の時空4次元のほかに巻き上げられた6次元が必要である(もう1次元を付けくわえる理論もあるが)。超弦理論は万物の理論の候補と言われており、それによってこの宇宙・世界のすべてを記述できるのかもしれない。しかし、人間にとって非常に肝心な「心脳」について記述できないなら、万物の理論とはいえない。よって、超弦理論は心脳科学(仮説)に適用できるように構築すべきでせふ。・・・ただし、「自由意思・意志」は存在する・・・。よって、超弦理論における「巻き上げられコンパクト化された微細な6っつの次元という次元は現実として存在するだろう、という結論にまたまた至る。それら6っつの次元の意味・意義は、既に説明したとおりである。・・・以上、この長いセクションを重複を含めて言葉をかえてまとめると・・・哲学的世界観~超弦理論(仮説)~心脳科学(仮説)の絡みあった抽象的観念的世界描写は現実に対応しているように見える・・・しかもその前に論じたとおり、科学的と思われる立場で検討しても、同じことが言える、という結論に至っている。ということは、☆「超弦理論に必須である「巻き上げられコンパクト化された微細な空間6次元は、心的内容~意識内容の世界でもある」☆、ということになるだろう。・・・わくわくしてくる・・・惑惑する方もおられるだろう・・・・・・ただ、超弦理論において、心器を記述することについては困難は少なさそうに見えるが、意識器をDブレインで構築できるとして、経時変化するh(t)をどう記述できるのか、心器についてより、より難しい検討課題となるだろう? ・・・。・・・その上で、超弦理論――仮説だ――で、宇宙・世界のさまざまと心脳の世界まで記述できるとしても、そこにはそれでは記述できない領域が大きく広がってあるだろうし、自由意思・意志は存在する(だろう)。・・・物理数学で記述できない領域は大きく深いだろう(既述)・・・・・・超弦理論ではなく、場の量子論によって、心脳活動の特定のレベルにおける物理的自然工学的説明が可能だろうか・・・・・・それを書く前に、まず以下を述べておこう・・・場の量子論ではなく、その出発点にある量子力学での、心脳活動の特定のレベルにおける物理的自然工学的説明は、「心器と脳において情報量子sがやりとりされる」、「心器が形成生成した基本的単位時間分の『心的内容情報つまり心的内容情報スペクトル』をもつ情報量子sの一団(つながり・関連ある一群。クラスター)を意識器に入れる」、「意識器でそれが経時変化波動モード意識内容というエネルギー実体・実態となって発現する」、と記述できるわけである。量子力学によっては、今までのところ、赤外線が心的内容情報量子の第一候補である。そのほかの光子(電磁波)も候補に挙げられる。そのほか、素粒子物理学におけるさまざまな粒子sも検討対象にできる。で、心器というフィールドと意識器というフィールドの記述のモデルとしては、過去にさまざま述べている。それらふたつのフィールドを量子力学で記述できるのか?できないこともなさそうである。心器のフィールド(場)と意識器のフィールド(場)――心器と意識器においてはフィールドと表記する――、心器のフィールドは情報量子sを扱い理活能力をもち、意識器のフィールドでは経時変化波動モード意識内容――そこでは励起状態が低く?量子化(粒子化)までは至らずにフィールドが超絶複雑にゆらぐ?――もしくは、情報量子sが波として発現するフィールド、――そういうフィールドsが存在する可能性もあるだろう。さらに、今までにまだ予言も仮定もされていない粒子(s)――なんらかの場(s)が励起されて生じる量子(s)――しかも心的内容情報量子として活用できる量子(s)――つまり脳内にある物質が発受信できる、あるいは、虚数的な空間で、それらが発生する、――そういった新量子(s)が存在する可能性は否定されてはいない。で、超弦理論での、以上の量子力学による記述に対応する記述における強みとして、今までに発見されていない情報量子(s)を容易に想定できる?ことがある。意識器のモデルはどうなるか・・・Dブレインで可能だろう・・・、という点については他のところに述べている。ほかの可能性や難点についても既述している。さて、いくらか遡って・・・「場の量子論によって、心脳活動の特定のレベルにおける物理的自然工学的説明が可能だろうか」という設問に進もう。場の量子論での仮説の立て方・・・「心器のフィールド」と「意識器のフィールド」が存在し、しかも、それぞれが個別であり、それぞれが特定の有限な範囲にあり、それぞれが一体性を形成している、しかも、そういう二種類のフィールドsが、それぞれそうとうな数存在すること(しかし人間の総数よりは少ない――ここでの「人間の総数」の定義は、非常に~無限に長い時間の間に生まれてくる「意識と知性をもった生物の総数」ということである。「素子的なものsの可能な組み合わせからでてくる総数」という実態も考えられるが、それらの中で、実際に生まれでてくる「意識と知性をもった生物の総数」といった意味での定義であるともいえる)、そして、そういうフィールドsが可能であること、が要請される。心器のフィ-ルドにおいては、粒子(量子が粒子として現われた実体)が現われ扱われることが要請される。意識器のフィールドでは、波動(量子が波として現われた実体・実態)が現われ、それらさまざまな波sが重ね合わせの原理で重ね合わさって、超絶に複雑で玄妙な波動実体・実態を発現することが要請される。以上は、どの物理学(量子力学、超弦理論など)で記述するにしても、共通である。(・・・以下このカッコ内の記述は、上に加筆したために迷子になってしまった・・・過去にもそういったことはある程度多い・・・参考としてここにそのまま置いておこう・・・場の量子論による、以上に対応する記述においては、まず、それらふたつのフィールド――心器と意識器のそれら――の記述がやりやすそうだ、といえる。情報量子については、量子力学の項で述べた内容と同じことがいえる。・・・参考)(加筆)(・・・以上の検討・追究について、完全に自信があるわけではない・・・当然今のところ推測~仮説にすぎない・・・)(・・・付記・・・上にも記したが、「意識による直接意識体験」という例外がある可能性についても過去に述べている)(加筆)(つづく)以上、そこらにもまだいくつもの研究課題がある。・・・ではここで、コフィーブレイクのひとときを・・・さて、ここに脳科学・脳神経科学における興味深い事象・事例sの説明――心脳科学・仮説による――を載せよう。:対象情報が不完全になる事例s、たとえば「盲視など」、を心脳科学(仮説)で説明できる:(1)脳~心器における情報は、スペクトル要素型であり、対象情報を基本 的成分要素(要素成分)に分解した形態で扱われる。(2)脳に欠けたところが生じると、対象情報において、対象情報について、それら基本的成分要素 (要素成分)sに足りない部分sが生じる。で、それら基本的成分要素 (要素成分)sを統合するのは心器である。心器がそれらを心的内容情報スペクトルつまり心的内容のひとコマ分にまとめ上げる。よって、そういう条件下では、欠けたところのない一般的な対象情報の状態・内容、に比して「奇異に思える不思議な実態」が生じる。注:単位時間ごとの心的内容のひとコマ分sが、次々に継続して意識器に送り込まれ、重ね合わせの原理で、エネルギー経時変化波動モード意識内容h(t)となって、意識器が意識し味わう。:以上、注参考:そういう「奇異に思える不思議な実態(心的内容、意識内容において)」をもつ人物が、それを「認識すること」と「意識し味わうこと」は異なる別な事象である。ここは複雑である。まず、「奇異に思える不思議な情報実態」についての情報処理は脳で行われる。「心器」がその情報に着目していたとすれば「心器」もいくらかその情報処理にかかわる。その情報処理――単位時間ごとに継続していく――が単位時間ごとに終わると、それら「心的内容情報の一団s(クラスターs。関連ある一群s)」はつぎつぎと「意識器」に送りこまれ、意識し味わわれる(「心器」がそれに着目していたばあい)。その意識し味わわれる一瞬手前の時点で、「心器」がその情報が「なにか変だ」と認識するかどうか。その情報に着目していて、それを監視する一段上の知性が「心」器にあれば認識できる可能性はある(――コンピュータではそれに対応するプログラムはある。しかしそのばあい一段上ではなく同列であるが。といっても、作動序列は異なるので、一段上といってもいいだろう。そこでは、「一段上」の意味が異なる――)。それから「意識器」で意識し味わわれる。その情報を「意識器」で意識し味わった時点でも、「意識器」自体は「なにか変だ」という情報処理・認識はできない。単に意識し味わうだけである。「意識器」自体は意識し味わうだけの働きをもち、心的な情報処理にはかかわらない、というか心的な情報処理はできない。そこにおいて、「意識器」からなんらかの情報のフィードバックが「心器」にあるか否か。あるいは、それを監視する知性が心器にあるか否か、その仕組みはどうなっているか。筆者の「感じ」としては――こういったレベルにおける判断は「感じ」というしかない――、「心器」は「意識器」をモニタしているのではないか、ということになるが・・・・・・。どうやってモニタする? なんらかの量子sによって? ・・・コンピュータのばあいは、モニタ画面とその表示内容をモニタするのは、人間である《意識のたとえとして》。先に述べた意味においてではなく、コンピュータの演算部とソフトウェアがそれをモニタすることもできるが、それは意識のたとえとはならない・・・で、ここで、次の観点から「意識器からなんらかの情報のフィードバックが心器にあるか否か」という問題を考えてみよう。筆者の視覚においては、左右の目による映像の色調がいくらか違っている。たまにそれを認識する――筆者は、消費エネルギーを減らすために、片目をつぶって(つむって)作業などを行うことがあるから気づくのだが――右目の方が暖色性がいくらか強い――ついでに、片目だと意識エネルギーの消費が減る、と実感する。活動時間が延びるのである・・・ここにも心脳における研究課題がある。「意識エネルギー」とは何か。それは単に脳の生理的エネルギーだけとは思えないと実感する――・・・元に戻って・・・それは、デジタルカメラにおける、メーカーの間での色調の違いのような感じの差異でありそれと似たようなものだ。そこでの検討課題はこうである。その色調の違いに気づくのは、心器である。どういう機序でそれに気づくのか? 1・心器で情報処理している段階で気づくのか? それとも、意識器からそれに関するなんらかのフィードバック情報があって、それによって心器が気づくのか? という謎と設問、それが検討課題である。両目を開けているときはそれには気づかない。片目での映像を比較してはじめて、それに気づく。もし、「1・」であれば、両目で見ているときにも気づけるはずだとまずは考える。それを確認するには、左右の視野において、それぞれ及ばない領域の映像の視覚像で比較しなくてはならない。今、筆者の好みの電球色LED照明と昼光色蛍光灯スタンドの元でこれを書いていて、外は薄暗く、という状況で、その比較をやろうと試みているが、比較する外界にある対象の壁などを揃えることができないので、今いる場所ではそれは不可能だ。・・・残念・・・場所をほかに移して、そのうちにやってみようと思う。筆者は超めんどくさがりなので、・・・とはいえ、そこでの工夫を考えついたので、それでやってみたら、やはり、色調が違うようだ。外視野の極限的な部分での比較になるので、ぼんやりとしかわからないんだが、そういう結論に至った。何人かの人にもそれについて訊いてみよう・・・ということは、・・・しかし、なんの解決にもならない・・・はじめの設問にまた戻るだけだ。(加筆)(・・・ほったらかし・・・・・・彫ったら菓子・JK・・・彫ったら菓子というのは、物語・ヘンデルとグレーテルだったか、お菓子の家などのことを言うわけである・JK・お菓子で家をつくって、さらにそのお菓子を彫って彫刻的な感じのいい建物にするのである・JK・で、その彫ったら菓子を食べ過ぎると太るのは言うまでもない・JK・つまり彫ったら菓子は別名メタボ菓子とも言う・JK・・・ここで滑って転んで転調して・・・彫ったら菓子を食べ過ぎてメタボになった人を「デブチンスキー」と言う・JK・なにやらロシア人のような名前であるが、デブチンスキーの多い国は、端的に言うと、養豚所である。ガメリカとか養豚場になっている国はいろいろある・・・さてそこで・・・デブチンスキーの多い国は、そのあまりの重さで沈没していくのである。つまり快楽をむさぼる人間の多い国は破滅に向かうということである。それは質時間回帰である・・・ということで、今回のクオリア追究のギャグは「質時間回帰」で締めることができてほっとした・・・・・・)☆新しい時空の理論:「ツイスター+ひも=時空の謎解き~日経サイエンス2010年8月号」から引用:「 いま生まれつつある時空の新理論は仮説の段階だし,数学的に非常に難解なので,直接関係している物理学者たちでさえ進展状況を追いきれていないと認める。時空が派生構造にすぎないとしたら,それにもかかわらず私たちにこれほど現実的に見えるのはなぜなのだろうか。理論家たちはまだ説明できていない。 命のない物質から生命が生じるように,時空もどうにかして形作られるに違いない。その過程がどうであれ,それは原子より小さなスケールだけの話ではありえない。サイズの概念そのものが,時空に伴って出現するのだから。すべてのスケールで,そしてどこであっても明らかであるはずだ。それを見る方法がわかりさえすれば。」以上を、心脳科学(仮説)で解明できている――仮説として時空の大枠の原理を提示できている――。:つづく☆「研究者に研究不正をなさないことを学習するよう義務付ける」学術会議、国立大学協会、公立大学協会、日本私立大学団体連合会、の共同声明研究不正問題:「大学や研究所など、組織の責任をも問う方針」文科省つぶやきより:特定の意味で:心器での内容(活動実態)はハイゼンベルク描像に、意識器での内容(発現実態)はシュレーディンガー描像に、それぞれ似ている。さらに、特定の意味で:両方に着目すると、それはディラック描像に似ている。☆新ことわざシリーズ:世界は、無数の質の対生成と無数の質のもつれでできている。そしてそれらは質時間回帰の流れの中にある。悠久の大宇宙無限大河 久遠の質時間回帰の限りなき流れ☆「心は世界の焦点心をとおして意識は世界を意識し味わう自分の言動をも含めて己の体験・経験をも含めてそこにあらゆるすべてがあるという立場は可能すべての心器 すべての意識器を総合すればますます決定的にそういえる」☆心脳科学(仮説)には、10ほどの仮説sが入っている。数え方によってはもっと多い。最高16以上か。それら仮説sがひとつの仮説体系に組み上げられている。ここで、心脳科学(仮説)が反証されたばあいのことを考える。そのばあいには、仮説ひとつひとつ(仮説体系ではなく)を取り上げて検証することになる。それら仮説のうち、重要度が最も高いものから、#1、#2、#3、と番号をふっていくとして、#1と#2、は、心脳の現実を説明するのにどうしても欠かせないと思える。ついで、#3、もそうだろう。本論で述べたように、それらには(も)根拠がいくつもある。根拠の上に仮説sを立てたのである。以下、検討はつづく(ここでは検証ではないが)。(重要度の低い仮説は破棄しても本論には影響はでない)そういうふうに検討していくと、それら仮説sのすべてが反証されるとは思えない。なぜなら:(根拠がいくつもある上に)それらしかないだろうと思う。ほかに在りようがない。ほかになにもない。もちろんこれは、洞察の下、感じ・直観で言っているのだが。これは非科学的姿勢にみえる。しかし、科学の歴史は、仮説の構築をはじめとして、多くが、そのようにして進展してきたわけである。さて、当然やはり、検証が待たれる。☆つぶやき:以下、クオリア・質と大きく関連する:原稿がほぼできあがっているもの(原稿)、と、構想・内容構築がほぼできあがっているもの(書き散らかし)、と、構想がほぼでき上がっているが少ししか書いてないもの、など:質の科学(科学的仮説)転生の科学・哲学(科学的仮説)世界哲学(希望、哲学)宇宙は永遠に続いていく(かどうか)(科学的仮説)論理地図(科学哲学的仮説)物理数学・数学とは何か(これは論理地図とも大きく深く関連する)世界理解の哲学(科学的仮説)歴代の哲学を採点する(心脳科学・仮説にもとづいて)運命のノート(遊び? 現実? (=仮説という意味))定義と名づけ方から見える展望そのほか以上の中には、それらのうち複数を統合した方がよい内容をもつタイトルもある。☆心脳科学(仮説)(それが正しいとして)の立場で、哲学的問題や科学上の問題、その他などにおいて、多くの設問を立て、それに解答することができる。それらは、心脳科学(仮説)の理解度テストともなる。心脳科学(仮説=仮説sの体系)には、10ほどの仮説が入っているので(数え方による。最大16以上か。重要度の低い仮説は破棄しても本論に影響はない)、そこでは、その仮説たちのどれどれを用いての解答かをも併せて問うと効果的である。(筆者がそれらの解答をだしている設問もあるし、その途上にある項もあるし、まだ答えをだしていないものもある。まだ手がけていない項目もある。しかし、当然解答はでてくる)☆前回の分(「意識とクオリアの外側」)にさらに加筆があります。つぶやきから:心脳科学(仮説)から、さらに大胆な仮説としての、この世界の記述もでてくる。それは、超弦理論による、この世界の記述、と一致しそうである(超弦理論をそういうふうに構築できそうである)。(私は、超弦理論を、私の研究に必要な程度学んだ)そこで、超弦理論を万物の理論とするためには、それを心脳科学(仮説)に適用できるように構築すべきである、ということになるだろう(人間や心脳などのことまで記述できないのなら、万物の理論とはいえない)。それらは、超弦理論の構築に制限をもたらす。そのことは、超弦理論がこの世界・大宇宙・森羅万象を、現実どおりに記述する担保・保証になると考えられる(超弦理論は数学に多くを頼っており、多様性が高いので、構築にあたって迷う要素sがある。そこにおいて、迷うことなく超弦理論を構築できる。心脳科学がその羅針盤となる)。↓(矢印の向きは、難しい。反対でもいいようだ。下から読んでいただきたい。一番下を元にしたばあいと、一番上を元にしたばあいでは、矢印の向きが反対になる)こういうことを考え記述するのも、心脳である。そこらのところも解説・・・(以下略)・・・↓(矢印の向きは、難しい。反対でもいいようだ。下から読んでいただきたい。一番下を元にしたばあいと、一番上を元にしたばあいでは、矢印の向きが反対になる)こういうことを考えるのは、心脳である。心脳科学(仮説)で、そこらのところも解説できる。↓(矢印の向きは、難しい。反対でもいいようだ。下から読んでいただきたい。一番下を元にしたばあいと、一番上を元にしたばあいでは、矢印の向きが反対になる)以下は、心脳科学(仮説)とも深く関係がある内容で、「意識とクオリアの外側」についての論にもなっています。つぶやきから:1:昔むかし、考えたことだが(精密に注釈や対論などもつけたいところだが、ここではそれを省略):2:「この世界に、森羅万象~その一部、を意識し味わう人間のような意識をもつ存在がいないと、この世界・大宇宙はないに等しい」(ついでに記しておこう「それと同時に、この世界・大宇宙がないと、意識をもつ存在も存在しえない(かもしれない)」)3:「よって、そういう存在がいるようにこの世界・大宇宙はできているはずだ(映画と映画館には観客の存在が必須であるように。観客がゼロだと確定していたら、映画も映画館もつくられない。それに反する例が趣味人によってなされたとしても、その趣味人は観客でもある)」4:(ここまでは哲学であり、私はそれが好きだ)5:「そして、明らかにそういう存在(たち)は居つづけてきたし居るしこの先も居つづけるだろう(途切れることはあっても―一応これも記)」「それに先立って、この世界・大宇宙も同じく過去から未来まで存在」(これは事実だ)(哲学的ゾンビについては別なところで論ずる)6:「これから先も永遠にそれは続いていくだろう(途切れることはあっても)。そしてたぶん永遠の過去からも続いてきているだろう」(この後者はなくてもよいが)(これは希望であり、哲学であり、科学的仮説だ)7:「そこでは、質の対生成、『質のもつれからまり融合離反融合・・・』、質時間回帰、が起こりつづけ《い》ていくだろう」(これは希望であり、哲学であり、科学的仮説だ)8:「以上は、『意識の存在の必須性・必須絶対性』からの、主に哲学的な論の展開だが、私はそれが好きだ。科学だけではそういうことはできない」9:以上は、何十年も前に考えたことで、7年くらい前にブログにも書いた。つぶやき:相対論での空間について、遊びで少し言及した個所に加筆:「虚空間・素空間」と筆者が表現した空間は相対論では否定。○心脳科学 超弦理論 超ひも理論 クオリア 質の科学 世界哲学◯1年以上前に公表した心脳科学(仮説)の初版には、一切手をいれないで、ネット上公表サイトにそのまま置いている。もちろん私のPCの中でもそうである。PC上では、原稿を書いていくたびに新しいファイルとして記録してきている。前回の分に加筆があったので、載せます。つぶやきより:有加筆:この文は、少し変なんだが、こう書くと要点がわかる:推測による「脳における情報構造」からいって(言って、行って)、心・意識・脳の全体を矛盾なく説明できるのは、心脳科学なる仮説体系しかない、今のところ。(推測による「脳における情報構造」は、心脳科学なる仮説体系の中にはいっている)つづき:推測による「脳における情報構造」が非常に重要なので、そういう表現になった(実際は、心・意識・脳における情報構造だが)。。仮説体系の仮説は複数である・仮説たちの体系。世界情勢がますます緊迫化してきているように見えます。金融や経済を含めてそうでしょう。今までもそういった方面は大変だったともいえますが、この先はさらに困った事態に至りそうです。さて、そろそろ、心脳科学(仮説)の全体像をここに載せたいと思いますが、その前に:つぶやきより:推測による「脳における情報構造」からいって、心・意識・脳の全体を矛盾なく説明できるのは、心脳科学なる仮説体系しかない、今のところ。心・意識・脳の全体の現実を説明できるのは、心脳科学なる仮説体系しかない、今のところ。リベットの実験事実を説明できるのは、心脳科学なる仮説体系しかない、今のところ。この世界の本質的なことごとや現象的なことごと、あらゆる現実を説明できるのは、心脳科学なる仮説体系しかない、今のところ。話したり書いたりすることなどは、簡単な内容では、反射的な脳の活動でありうる。しかし、それが複雑・高度な内容、今までにない内容になると、もうひとつの心が、その活動を監視し指導する。世界人さて、ここの皆さまが、学問研究などにおける慣行と常識や法律などに従って、「優先権を保護する―つまり最初の発案・独創者を尊重する」―のであれば、私はとっくにここに「心脳科学(仮説)」をエントリーしていたことでしょう。既に一年以上前、「心脳科学(仮説)」を公表しているし、それ以前にも私はネット上に、それに関係した内容でかなりつっこんだことを書いています。しかし、世界の風潮をみるに、警戒してここには詳細を書かなかった。今や、研究不正をなすと後がとんでもなく大変なことになるという常識が社会一般に浸透してきたし(ここの部分は、かの細胞についての実験事実・成果はなかったといってはいない)、文科省も研究不正はあばいた上で罰する方針を表明し実行に移す途上にあるので、そろそろ「心脳科学(仮説)」をここに載せたいと思っていますが、なんというかかんというか、はっきり書きたくはありませんが、書かないわけにいかず、こう書くしかないわけで、可能性のある新しいなにかの誕生を妨害することだけは断じて避けなくてはならない。そんなことをするのは卑怯・卑劣そのものにほかならず、その人自身を汚すことになる(あとが大変だろう。それはクオリア・質時間回帰の一種でもある)。それよりも自分の説をぶつけるのが正道でしょう。ともかく、自分の論を展開できない人はコメントしない方がいいでしょう。好意的であればそこは問題はありませんが(ここに参加すると、健康を害するという代償を支払わねばならないというのは、断じてあってはならないことだ。それは傷害罪を犯したこととなる)。さて、とはいえ、「心脳科学(仮説)」は可能性を秘めた仮説体系であり、検証が必要です。反証されたらSFということになるでしょうが、その一部分は生き残るかもしれません。世界情勢などをみていると、いろんな意味で早くここにエントリーしなくては、と思います。茂木さんは、クオリアマニフェストを『高らか』に謳いあげ、『知的に誠実な』研究者の参加を激烈に呼びかけて、ここを開設したのですから、そこらのところの充分な配慮が必要でしょう。いずれにせよ、ここは有益で大変ありがたいサイトです。クオリア・質研究関係のつぶやきよりI have been translating the summary of the"mind-consciousness-brain science(hypothesises-system)"in japanish into engleeeese one.The translation can not be done without my explanations because it includes new concepts which did not exist before.So,I continue doing it by myself.クオリア・質時間回帰:8月16日現在:世界情勢がさらに緊迫化してきています。それもこのスレの趣旨の中にあり、クオリア・質時間回帰で説明がつくでしょう。さて、心脳科学(心・意識・脳を総合した科学)の翻訳は進んでいます。「クオリア・経験の質」関連のつぶやきから:I think so,and it makes me crazy.The past contribution of you that was about logic was interesting.心脳科学(仮説)で、科学による意味論をも構築できる。心脳科学(仮説)で、科学による言語論をも構築できる。引用元を明記すれば、引用できるわけです。☆このスレのトップ(再掲):私は40年前後前からさまざまな研究を断続的に独自にやってきているのですが、一番世に問いたいのが「質の科学(仮説)~世界哲学」です。それが今現在の世界に必要な科学というか思想・哲学なのかもしれません。そう遠くないshourai sekai ha kaimetu ni mukaisou(それは、質の科学~質時間回帰則と、その他いくつかの立場からの予想)ですから。そうなるかどうか断定はできませんが。もうそんなことどうでもいいとも思いますがね。「心脳科学(仮説)」はその一部です。☆このスレの最初に書いたように、世界情勢がさまざまに深刻化してきています(クオリア・質時間回帰だとみなしているわけですが)。その先、世界の状況がどうなっていくか注視に値します。生活環境がよく保たれた上での、研究だということはいうまでもありません。できるだけ早く心脳科学(仮説)の概要を英訳し公表してからここで講義を始めるということで、翻訳に努めていますが、まだその途上にあります。ここでの心脳科学(仮説)講義はその後になります。☆ 引用元を明記すれば、引用できるわけです。つぶやきから:加筆:心脳科学(仮説)の中で、その検証のための実験sについてかなりな程度言及している。さらに、心脳科学(仮説)で、量子力学における最大の謎である現象を象徴して現す「二重スリット実験」の実態を仮説として説明できる。心脳科学(仮説)内の一片:意識する意識内容を、知性で選択できるケースがある。選択できないケースもある。意識内容そのものには知性は介入できない。つづき:その表現・記述には誤解される面がある。その面は、また別の問題である。次元が異なる。「意識内容そのものに知性が介入できる」という面がそれであり、それまで否定されるという誤解が生じうる。心脳科学(仮説)で、科学による哲学を構築できる。心脳科学(仮説)で、科学による形而上学を構築できる。心脳科学(仮説)で、一元論と二元論をも統合できる。心脳科学(仮説)で、唯心論と唯物論をも統合できる。ツイッターのクラウド的利用、心脳科学(仮説)で、一元論も二元論も統合できる。心脳科学(仮説)で、唯心論も唯物論も統合できる。学問についていっても、同じ表題で何かを唱えている人たちの間でもその内容は異なるし、任意のそれを学んでいる人たちの間でもその理解は違ってくる。心脳科学(仮説)では、そこらのところもすっきりと把握できるだろう。離れた訂正:科学哲学→科学による哲学(科学的哲学)心脳科学(仮説)によれば、大陸合理主義(論)もイギリス経験論も、両方正しい、と解説できる。不可知論にもいろんな立場がある。ぼくが以前ネット上で用いた、不可知論の領域、という用語は、単に、知ることが難しい領域、という意味で用いたので、不可知領域とした方がすっきりするが、まちがいではない。質時間回帰はつづいていく呪われた星、地球、SF:Spesial FactSF:Shocking FactSF:Sciense Factカオス理論は、因果的に決定論に立つ立場が主流だが(量子論をも含めて。あるいは量子論ははずして)、ぼくがネット上などに書いた立場は、それを超えた(越えた)それになる。心脳科学(仮説)で、科学による哲学・その他いくつもの分野を構築できる心脳科学(仮説)で、「現象判断のパラドックス問題」の構造解説もできる。心脳科学(仮説)で、「水槽の脳問題」の構造解説もできる。心脳科学(仮説)で、「哲学的ゾンビ問題」の構造解説もできる。心脳科学(仮説)で、「逆転クオリア問題」の構造解説もできる。心脳科学(仮説)で、「コウモリであるとはどのようなことか、という問題」の構造解説もできる。心脳科学(仮説)で、「マリーの部屋問題」の構造解説もできる。心脳科学(仮説)で、科学による形而上学をも構築できる。心脳科学(仮説)で、科学による哲学をも構築できる。心脳科学(仮説)で、唯心論と唯物論をも統合できる。心脳科学(仮説)で、一元論と二元論をも統合できる。つぶやきから:これも当然→研究不正がネット上で指摘された件も調査対象:ネットで指摘された研究不正をも調査することを大学や研究機関に求める方針が文科省で始動した。罰則付き。☆ 引用元を明記すれば、引用できるわけです。#3「引用元を表記しないとあとで大変なことになる」について「引用元を表記しないとあとで大変なことになる」と以前書いたことに関連してつぎのエントリーを載せておきます。さて、今までに何度も何度も現実に起きたことからいって、「他人の考え(アイディア)」を、引用表記をせずに用いると、後が大変なことになる、ということは常識ですな。その代表的な件として、以下でそれが確認できる。論文(研究についての発表を目指した記述体系)において、「研究不正」として糾弾されるものとしていろいろあるが、ここでは、その視座からこれに着目する。「研究不正」に該当するもの(その一部):「盗用」=「他人の考え(アイディア)、作業内容、研究結果や文章を、適切な引用表記をせずに使用すること」(この「盗用」については、今、世間の話題になっている、あの細胞に関わる研究論文に関してのやりとりの一環として、提出された不服申立書から抽出引用した。(「(アイディア)」は私の加筆である))そういった観点からいって、人は常識的かつ普通に(これには、後で大変な事態にならないやり方・在り方で、という意味を多く含むが、それ以上の説明は難しい)行為・言動するのが最善である、ということになりますな。(この小文は、「その細胞に関わる実験事実・結果はない。それは不正だ」、といっているわけではない)加筆:心脳科学(仮説)の中で、その検証のための実験sについてかなりな程度言及している。加筆:さらに、心脳科学(仮説)で、量子力学における最大の謎である現象を象徴して現す「二重スリット実験」の実態を仮説として説明できる。☆ 引用元を明記すれば、引用できるわけです。To be honest,or not to be honest:that is the question.Check out all my description on the Web.Check out all and all descriptions on the Web and others.世界人☆「クオリア・質」の科学(仮説)による、特定の事象の解説をなしてみます(質⊃クオリア。文字化け? クオリアは質に含まれる)。それは、「Disneys Frozen - "Let It Go" Multi-Language Full Sequence のサイト」における人々のコメントたちの内容を分析した上での解説である。その成り行き:その歌が好きになって、何度も聴いていて、さらにそこでの多くのコメントたちを眺めているうちに、コメントしたくなった結果そこにコメントした(それを後ろの方に付記する)。そのコメントが、そのサイト参加者にとっていくらかの慰めになればいいなと思い書いたものである。付記にあるように、「Disneys Frozen - "Let It Go" Multi-Language Full Sequence のサイトで、いがみ合いがあったので、こんなコメントをしてみた、数日前に」という文言でその経過の一部がわかる。そこでのいがみ合いの発生源はふたつあって、ひとつは、25言語しか用いられていないということであり、それによってそれ以外の言語の人たちは不満をもつということ、もうひとつは、25言語の中での優劣の争いである。さてそこで:その私のコメントの中で、「Minds of people who are being satisfied are going to lose some kind of those beauty.」の「some kind of those beauty」と、「Minds of people who are being unsatisfied are going to get some kind of beauty.」の「some kind of beauty」(こちらには、「those」はつけない。なぜなら外部から入ってくるからである。「some kind of beauty from the outside」である。以下、そこでも略記して「some kind of those beauty」を用いる)は同じ内容・概念を指している。「some kind of those beauty」とは、「クオリア・質」時間の一種である。「some kind of those beauty」を失っていくと、美を感じる資格や能力が失われていく。「some kind of those beauty」を得ていくと、美を感じる資格や能力を獲得していく。ただし、後者が前者の歌を美しく感じる資格や能力は健在であり強化される。そういう解説ができるところの、事象とその考察、の経過を辿った内容を今こうして記している。以上、そのサイトにおける「クオリア・質の科学(仮説)」の、内容、適用例、実態、などを説明しました。付記:Disneys Frozen - "Let It Go" Multi-Language Full Sequence のサイトで、いがみ合いがあったので、こんなコメントをしてみた、数日前に。With corr.:in a website where the "Disneys Frozen - "Let It Go" Multi-Language Full Sequence" has been uploaded☆Hi everybody,Im an(the)alien...XD lol...The aliens spellings and grammar in english are as I wrote in my last comment...XD lol...But Im going to be an earthperson ,So I want to study english.Now, in such situation ,Im going to correct it.With corr.:Hi everybody,Im an(the)alien.XD lol.I love the "earthic".You know it?...All of the 25languages on the earth are very ugly all for my ears gahahaha...My language is like this "♪ bgdvzgbdzgggzzzvvvdddbbb... ♪”...(I call languages on the earth "earthic",you see)......Oh no!...but...but...and...and...I love The earthic(s)...And I guess those songs of languages which are not in the vid must be more beautiful than ones in the vid. Because 25languagess people would be satisfied in a sense.Minds of people who are being satisfied are going to lose some kind of those beauty.Reverse,Minds of people who are being unsatisfied are going to get some kind of those beauty.By the effect, songs of the people except 25languagess people must be more beautiful than songs of the 25languages,in the viewpoint of each peoples mind-quality.Its only my conclusion.And adding words,in a sense,such a matter is caused by The commercialism......from UFO(from UFO & United Friends Orgaization(UFO))...XD lol.☆茂木さんのクオリア・マニフェストに「7、アジテーション」、という項目があります。つまり、クオリアMLはストレス解消の場なんかではなくて、研究の場でありクオリア問題を研究する人たちが集うところ、ということははっきりしてますな。クオリア・マニフェストから、ぼくはここにたどり着いたわけだから。ぼくも、クオリア・マニフェスト「7、アジテーション」、に触発され煽られて参加したわけです。以下引用:「7、アジテーションThe Qualia Manifesto 革命が近い。単なる科学革命ではなく、人間存在の拠って立つ基盤自体が変化し、私たちと世界の関係自体が変化するような革命の足音が聞こえはじめている。 人間とは何か、人間はどこから来てどこへ行くのか? このような究極の問いに答えるための鍵となるステップが今や見えてきている。 人間とは何かという問いに答える鍵は、私たちの心の中のクオリア、及びそれを支える主観性の構造の物質的基礎を明らかにすることである。 クオリアや主観性の起源を明らかにすること以上に重要な知的チャレンジは存在しない。 私たちがクオリアや主観性の起源を理解した時、その認識が私たちの人間観、世界観をどのように変えるかはわからない。来るべき認識革命の後で私たちの迎える状況がどのようなものになるにしろ、その可能性が今や開かれていること、そして、認識革命に至る道筋は論理的な議論とち密な思考と知的な勇気によって開かれうることを再確認しておこう。 クオリアの問題の解明には、論理的厳密性、開かれた感性、そして、今までにない思考のプロセスに踏み出す、知的勇気が必要である。 クオリアの問題の解明は、一個人では不可能である。自然科学者、数学者、芸術家、宗教家、心理学者、社会学者、全ての分野の優れた知性が共同し、総合的文化運動を起こさなければ、クオリアという人間の存在にとって核心的な概念の解明は可能にならない。 今や、勇気あるステップを踏み出す時機が熟している。 知的に誠実であり勇気を持つ者達よ、「クオリア」の解明のために団結せよ! 」:以上、引用世界人