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アヒンサとは非暴力という意味、仏教では不殺生と翻訳されています。 インド独立運動のピーク時に、マハトマ・ガンディーがそのスリムな身体が衰弱しきって死に至る寸前までの断食を何度も行い、イスラム教徒とヒンドゥー教徒の内戦状態に抵抗した事は有名です。 ガンディーは、断食を政治的な武器として使いました。 彼は自分の非暴力&不服従の思想にサッティヤグラハ(真理の把握)という名前をつけ、後のアメリカのマーティン・ルーサー・キングJr.やチベットのダライラマ14世などが、ガンディーの平和主義に影響を受けたと語っています。 1947年8月にインドは長い間のイギリスの植民地支配から独立しましたが、翌1948年1月30日にガンディーは首都のデリーで、ヒンドゥー原理主義者の銃弾に倒れて亡くなりました。 ガンディー自身はヒンドゥー教徒ですが、英領インドの一部だった現在のパキスタンとの統合独立を最後まで訴え、イスラム教徒にも理解と協力を示していた事が同胞からの強い反感を買ったようです。 「もし死ぬ時に(ヒンドゥーの)神の言葉を口にしなかったら、私の事(信仰)を疑っても構わない。」と生前に言っていたガンディーは、撃たれた瞬間に「ヘ~ラ~ム!(おお神よ!)」(アッラ~ではなかった)と呟いたそうです。 南インドのタミル・ナドゥ州の、その又南部にあるマドゥライという町のガンディー博物館に、彼が撃たれた時に身にまとっていた白い布が展示されています。 一面の血痕が今ではとても淡いピンクに退色したその素朴な綿布が、小さな特別室のガラスケースの中で静かに過去の歴史を物語っています。 他の部屋には眼鏡やサンダルなどのごく質素な日常的遺品とともに、糸を紡ぐ道具や白い綿布などが飾られていました。 ガンディーが自ら糸車を回して、糸を紡いでいる写真は有名です。 イギリス留学中や南アフリカで弁護士をしていた頃のガンディーは欧米式のスーツを着ていましたが、独立運動に身を投じてからはインドの伝統的な衣装の白いドーティ(一枚の布)しか身にまとわず、しかもその布を自分自身で手作りしていました。 これはイギリスの機械繊維産業の従属的な立場になった当時のインドにおいて、独自の繊維生産や精神を復興させるデモンストレーションだったのです。 チャルカと呼ばれるインドの糸車の一種は、チャクラ(車輪や円の意味、ヨガでは人体の背骨に沿った7ヶ所に目に見えないエネルギーの輪が回っているとされ、それらの場所は医学的なホルモンの分泌腺に対応している)とその語源が近い事から、インド独立運動の象徴になりました。 仏教でも初転法輪のように教えを説く事を法輪を回すと言ったりしますが、チャルカ(チャクラ?)は今でもインド国旗の中央で回っています。 モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(本名)に、ノーベル文学賞を受賞したインドの詩聖ラビンドラナート・タゴールはマハトマ(マハーは偉大なる、アートマンは魂)という尊称を送り、独立初代首相のジャワハルラル・ネルーを含むインド国民はバプー(お父さん)という愛称で呼びました。 ガンディーの生まれた西インドのグジャラート州にはマウント・アブ-というジャイナ教の聖地があり、インドでは少数派に属するジャイナ教徒の多くいる地方です。 極端なアヒンサ(断食をして死に至る事は理想的な不殺生の行為)、徹底したシンプル・ライフ(裸で、又は白いドーティだけを身にまとって生活する人もいる)などのジャイナ教の教えは、ヒンドゥー教徒であるガンディーにも影響を与えたと言われています。 残念ながらアヒンサは、ヒンサ(暴力や殺生、アは否定接頭語)されてしまうケースが多いようです。 でも結果としてその人物の影響力はよりパワフルになり、無限に傾倒する人々が増え続けて行く事実も歴史が証明しています。 ガンディーやキング牧師はもちろん、イエス・キリストやジョン・レノンなどの場合もそうですよね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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