カテゴリ:日々あれこれ
金曜日のイーオンのレッスン。
テーマは「Twin boys born via surrogacy to be raised as Amercans」というものでした。 つまり、向井亜紀さんを代理出産で授かった双子ちゃんの母親として、最高裁が認めなかったという記事に対するディスカッション。 出産した人が母親か、卵子の提供者が母親かというあのお話です。 ディスカッションといっても、先生一人、私一人なので、先生と語り合うだけなのですが。 その話をしているうちに、DNA鑑定の話が出てきて、アメリカでは一般的になりつつあると。 母親自身が、子供の父親がわからないこともあるので、出産と同時に子供のDNA検査をすることもあるとか・・・ いつも、アメリカの後をついていく日本のことです。 これから、日本でもDNA鑑定が一般的になるのでしょうか。 そうすると、今回のような問題も、単純な遺伝子レベルの問題になっていくのかもしれません。 ただ、このことに関して、個人的な私の考えを少しだけ。 私達夫婦には、子供はいません。 子供を強く望んだことはありませんが、といって子供を拒絶していたわけでもありません。 つまり、自然に任せていたら、授からなかったということです。(一度妊娠したことはありましたが) 検査、治療をしようと思ったこともなく・・・ 決して、不妊治療のすべてをを否定するわけではありません。 自分の体の状況を調べ、積極的に受胎率を上げることができるというのは、医療技術の発展の素晴しい点だと思います。 が、人間の誕生は、人の死と同じように自然なものというのが、私の偽らざる感情なのです。 人の死が人間の力でどうにもなるものではないのと同じように、人の誕生も、本来はそういうものではないかと。 確かに、医療技術の発展で、多少人の死を遅らせることは出来るようになりました。 でも、死をなくすことは出来ません。 不妊治療の中でも、人工授精には、方法によっては多胎児が避けられず、多胎児の減数手術など、私にとっては首を傾げたくなることもたくさんあります。 望む望まないに拘わらす、死を受け入れなくてはいけないように、子供が授からないことも受け入れなくてはいけないことの一つなのではないかと、私には思えます。 少なくとも、人工授精や代理出産などは、生まれてくる子供の為にする行為でないことだけは確かだと思いますし。 例えば、向井さんご夫婦の場合、代理出産を選んだのは自分達の為であり、生まれてくるであろう子供達の為を思ってしたことではないということです。 人間は、もっと人間としての限界というものを、受け入れてもいいのではと、私は考えます。 でも、あくまでこれは私の考え方。 医療技術や人間の解明が進んできているのだから、そういったものを利用するのに躊躇する必要はないとお考えの方も大勢いらっしゃるでしょう。 そういった考え方を否定はしません。 普遍であったはずの命の誕生でさえ、複雑になったこの時代。 すべてを法で決めるというのは、本当に難しいことですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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