愚痴。
今日のらむのみみはちょっと怒りモードなので、読まれて嫌な思いをさせてしまったらすみませんm(_ _)m今日のお昼、母から電話がかかってきた。なにやら私に愚痴を聞いて欲しいらしい。その内容はこうであった。・インテリア業を営んでいる父が、クロス(壁紙)を貼り替えて欲しいという とある宗教団体にクロスの見本を貸し出した。・7ヶ月たっても音沙汰がない・母がその宗教団体に電話した・クロスを貼り替えてもらうことは決まっているので、柄が決まるまでもう少し待って欲しいと言われる・それからしばらくしても音沙汰無いので、再び母が電話した・すると・・・見本をなくしたと言われたらしい。クロスの見本というのは、現物のクロスが貼り付けられていて、かなり重くて分厚い。そして、父のように個人経営している場合は、通常一冊、多くて2冊しか見本は持っていない。また、某有名メーカーの見本を得るためには、こちらがきちんと代金を払う人間であるかという審査をパスしなくてはならない。そのメーカーからは誰でも買えるというのではないので、見本もあまり出回っていない。そんな見本をなくすというのもビックリする話だが、なくされてはこちらとしても商売が立ち行かなくなってしまう。それで本日、その宗教団体で今回窓口役になっている人が来て、この見本使って下さいと、5・6冊持ってきたそうだ。最早私はここで理解ができなかった。違うメーカーの見本を持ってきて、どうしろというのだ???なくされた見本のメーカーからは買えないではないか。最初この話を聞いたとき、故意になくしたことにしておいて自分たちの息のかかったメーカーから買わせようとしているのか?と疑った。そうこうして母が困っているとき、その見本の一番下からなくしたはずのうちの見本が出てきたそうな。で、母があるじゃないかというと、その窓口役の人はとても驚いていたという。ところがさらにそこから驚くべきことが・・・。クロスの貼り替えが決まって、依頼して下さったお客様には貸し出すことがあるので、その見本には、店名と住所や電話番号などを書いたシールを貼ってある。そのシールが剥がされていたと母は言う。しかも、見本の中の一部が切り取られているのだそう。差し上げた見本なら、切ろうが何しようが勝手であるが、曲がりなりにも「貸し出し」した見本なのである。持って帰ってみんなで相談したいだろうと貸し出したのである。相手もそれを理解しているから、「なくした」と言ってきているのだ。借りていることがわかっていながら、店名のシールを剥がしたり、あまつさえ見本を切り取ったりする神経が理解出来ない。人間なので、なくしもの、落とし物をすることはあるだろう。団体の構成員で見本を回し見ていたならば、管理はきちんとすべきとは思うが、なくしても仕方のない面はある。ただ、しつこいが、シールを剥がす・見本を切り取るという行為は、明らかに故意ではないのか???その辺りにとてもうさんくささを感じる。で、そこでまた謝りもしないらしい。というのは、その窓口役の人がなくしたのではないからだそうで・・・。けれどもし、私がその窓口役の人だったら、人から借りている物をなくしたら、なくした張本人を連れて謝りに行くと思う。相手がお店だったら何をしてもいいわけではないのは当然だ。けれど商売をしていると、「客だから偉い」というような考えをしている人に結構会う。その誠意のなさに母も怒りが頂点に達したようで、その窓口係の人に、「誰がこんなことをしたのか」と訊ねたそうだ。だが、その人はかばっているのかなんなのか、決して言わない。それで、母の知り合いのその宗教団体に入っている人に電話して、ことの一部始終を話したそうだ。するとその人は、「それはいけない。自分たち(の宗教団体)はただでさえ世間から嫌われているのに。連絡して本人に謝りに行かせる。」と言ったそうだ。その時ぽろっと、「ああ、きっとそれは○○工務店さんがやったんだな」と言ったという。母はここから次のように考えた。1.見本をうちの店から借りて、その宗教団体はクロスを選んだ。2.その宗教団体に入信している○○工務店さんによって、既にクロスは買い付けられているか、貼り終えられている。宗教団体の建物の内部を貼り替えるとなると、支部ではあるが、かなりの面積になる。当然かかるお金も大きくなる。だからクロス選びにも慎重になると思って、7ヶ月以上も待ったのである。他のお店で貼るのも、自分たちで貼るのも自由だが、見本を持っていないから見本だけ借りて、後は自分たちで・・・というのはむしがよすぎると思う。そういうことならどこのお店も見本を貸してはくれない。だから、「なくした」ことにしたのではないか。まぁ、そもそも見本は通常店頭で閲覧するようになっているので、貸し出しをする店の方が珍しいのであるが。ただ、この母の推理の、2に関しては少し疑問がある。見本を入手したからと言って、すぐ買えるわけではないからだ。最初に述べたように、審査をパスした個人なり企業なりでないと売ってもらえない。それが証拠に、その窓口役の人はまだ「貼り替えるのは決まっているので、もう少し待って欲しい。依頼するから」と言っている。母はいい加減腹が立っていたので、お断りしたそうであるが。そして、さきほど「なくした張本人だ」という人から電話があったらしい。母が言うには、「僕がなくしました」と言うだけで、ごめんなさいも、すみませんも、申し訳ありませんもないらしい。もちろん電話の相手は大人である。その上、なくした詳しい経緯を訊ねても、ただ「僕がなくしました」の一点張りだそうで。けれどなくしたといっても、「あった」わけであって、シールが剥がされていることや、見本が切り取られていることを訊ねても「僕がなくしました」の一点張り。母は怒りに怒ったらしく、「人の物をなくしておいて謝ることも出来ない人が、伝道なんてできるわけがない」と言ったそうだ。するとやっと「すみません」と言ったそうである。ただ、詳しい経緯を何も話さないことや、話し方が阿波弁ではなかったことから、もしかしたら真犯人をかばっているのではないかと母は疑っているらしい。この電話をかけてきた人は、○○工務店の人ではなかったのだ。これで私の愚痴はお仕舞いであるが、これを書くとき正直言って「宗教団体」ということを書くか伏せるか迷った。宗教団体と書いてしまうことで、個人や数人の間の過ちの原因があたかも宗教であると言っているように聞こえる懸念があったからである。けれど、結局書くことにした。それは、窓口役の人も、もしかするとお詫びの電話(?)をかけて来た人も、真犯人をかばっているかもしれないからだ。神に対してやましいことがないのなら、真実を言えばいい。でも言わないのだ。それはやましいと感じているからだろう。一方で神の愛を説き、一方でやましいことをする。そしてもしも自分たちの利益のためだけにうちを利用したのならば、その宗教団体内部はグルなのである。借り物に故意に手を加え、なくしたと言い、謝らない。そんな小ずるい真似をする人たちが伝道だなんて、と思うからである。宗教という以前に、人間としてそのあり方が疑問である。そういう人間に人類を幸福にすることがどうしてできようか。母はこの宗教団体の人に知り合いがけっこういて、優しい人が多いという印象を抱いていたようだが、今回のことで見る目が180度変わったという。私はこの団体はもともとうさんくさいと思っていた。今回はたかが見本の話であったが、その誠意のなさには閉口する。信用を得るのは難しいが、信用をなくすのは本当に一瞬のことなのである。