私の初恋
昨日年間最大級の落ち込みに襲われ、21時半過ぎには就寝してしまった。ウィンブルドンでエナンがセレスを破った試合のVTRでも見て景気をつけようと思ったが、多少元気になったものの、そのまま寝てしまうことにした。 今日は幾分回復したが、それでもまだおセンチな気分は抜けず。おセンチついでに、私の初恋なんぞをお話させていただこうかという気になった。少しおつきあいくださいませ。 私の初恋。それは余りに私らしいものであると言えるかもしれない。それは小学校6年生の夏。10歳年上の指揮者の卵に恋をしたのであった。数日前に書いた日記に登場するオーケストラは、子供主体ものであった。幼稚園のときからそこで弾いていた私は、6年の夏の演奏会ではセカンド・ヴァイオリンの一番前に座っていた。毎年夏に定期演奏会をするのが恒例で、指揮者は地元の音楽の先生だったり、またはヴァイオリンを指導していた私の恩師K先生の門下生だったりしていた。 その年の指揮者は、T藝術大学の指揮科学生だったYさん。当時22歳ということになる。彼はとてもソフトな印象の、優しいお兄さんだった。子供たちのオーケストラを指揮するなんて、とてもじゃなく難しい。だいたい言葉が通じない。そんな中でも彼は根気よく指導してくれた。高松での演奏旅行の合間には、同じ芸大の学生さんと一緒に、ケーキを食べに連れていってくれたりもした(何故か子供は私一人だった)。 夏の定期演奏会が終わると、恒例の「燃焼病」にかかるのが私の常だったが、その夏の終わり、明らかに私の中で何かが違っていた。演奏会が終われば、Yさんに会うこともできないとは、わかっていた。たまたま実家が近くだったから、演奏会の最終日には一緒に帰ってきてくれて、最後に握手してくれたのだが、その握手を思うと、胸が痛んだ。だがそれがどういう感情なのかは、わからなかった。 私の異変に気づいたのは、母だった。残りの1週間で片付けなければならない宿題の山を前に、口数少なくボーっとしている娘。母の目から見て、それは明らかに恋の病にかかっていたことがわかったのだろう。数日してから、それが恋であることを、優しく静かに教えてくれた。 母の言葉にすべてを納得した私はその後Yさんに手紙を書いた。だからといって愛の告白ではない(笑)。ただ単に、お礼が言いたかった。楽しい思い出をありがとう、と。彼からの返事は、彼の人柄どおりに、思いやりと優しさに満ちたものだった。嬉しかった。その手紙は、私の宝物になった。 高校生になっても、大学生になっても、Yさんの優しさは変わらなかった。その頃は、数年に1度、顔をあわせる機会があった程度に過ぎなかったけれど。大学卒業寸前に上野駅で偶然お会いした。そのとき、自分とは違う、素敵な大人の女性が彼の傍らに立っていたのを認めたとき、とうの昔に心にしまっておいた昔の気持ちがよみがえってきた。そして数日の間、なんとなく所在のなさを感じていた。 Yさんと私は、今ではともにK先生の門下生、OBとして毎年夏にその演奏会に顔を出す。彼は指揮者として、私は小さな、20年前の私と同じ年頃の子供たちに混じってOBとして。そして、もう一人の大先輩、Tさんと共にお酒をいただきながら音楽談義をする仲間になった。いや、仲間にさせていただいたと言うべきか。今ではよき指揮者、よき夫、よき父親となったYさんの、優しい笑顔に接するたびに、私の心の中は、20年前のあの日に逆戻りしているのかもしれない。 6年ほど前の夏、そのオーケストラの練習に顔を出した。その年の指揮者は彼だった。私が社会人になってから、そして彼と最後に顔をあわせたときから4年が過ぎていた。そのとき彼は私にこう訊いた。「Kさん、Kさんはまだ『Kさん』なの?」。私が子供の頃から私をレディとして扱ってくれた(と思っている)Yさんが、もしかしたら初めて本当のレディと認めてくれたのが、そのときだったのかもしれないと、今、思うのである。