わたしの誕生日にまつわる話
10月の中旬に私の誕生日があった。30歳を過ぎて数回目の誕生日だから、はっきり言っても言わなくても、まったく嬉しくない。年々その嬉しくない度合いが大きくなってきているものだから、今年はなおさらでもある。ここ数年誕生日には必ず風邪で欠勤するのがおきまりになっていたので今年こそは!と思っていたが、やはり調子は良くなかった。わたくしが生まれてきたことを一緒に祝ってくれる最愛の彼でもいれば、きっと楽しくて楽しみでたまらない誕生日になるのだろうが、生憎そのような人を持ち合わせていない自分は、ひっそりと家族で祝ってもらうのが、せいぜい関の山。三十路をすぎても結婚の「け」の字の気配すらない長女を気遣ってか、両親が行きつけの鮨屋で誕生を祝ってくれるというのだから、仕方なく、いえありがたくご相伴に預かることにした。妹と母親の誕生日にはプレゼントを毎年欠かさない習慣なので、彼女らからのプレゼントを心待ちにしていたが、妹の手配ミスで、その品物はわたくしの誕生日を10日近くすぎようとしている今でも、まだ手元に届かない。万年筆フェチの私のために、日本製の手作り万年筆(グリーンのセルロイドマーブルが美しい!)を注文してくれていたようだが、ネームのピリオドの位置を間違っていたとかで、待ちぼうけを食らっている。もちろん、プレゼントいただけるだけで、有り難いのでしょうけれどね。更にわたくしの誕生日は、最愛の祖父の告別式の日でもあったという、この巡り合わせ。祖父の亡くなる1週間前に、彼が死んでしまう夢を見た私は、まだ祖父は病気の気配すらなかったにも関わらず、その週末大慌てで帰省した。突然遊びに来た孫娘を祖父は喜んで迎えてくれたけれど「おじいちゃんが死んじゃう夢みたから」とはさすがに言えず、顔を見て少し話をしただけで早々に祖父宅を辞した。その数日後、夜遅く駅からアパートまでの道のりを歩いて帰宅する途中、何度も自分の後ろを人が歩いている気配を感じたが、振り帰っても人はおらず、奇妙な思いで部屋に戻ると、留守電が何件も入っている。再生してみると、全部母からで「R子! おじいちゃんが倒れたからすぐ連絡ちょうだい」に始まり「まだ帰ってこないの」、と数件目の留守電の声はだんだんと切迫したものになっていき、私が帰る直前のメッセージでは「もうおじいちゃん駄目かしれないよ…」と泣き声になっていた。だんだんと悲痛なものになってくる留守電を聴きながら、部屋の真ん中で呆然と座り続けることしか出来なかった。「どうして」という気持ちと「やっぱり」という気持ちと。すでに帰省する終電はない時間だから、翌朝朝一番の電車で帰ることにしたが、祖父の枕元に到着したとき、祖父の意識はすでになく、ただ身体だけがそこに生きている状態だった。それでもわたしは呼びかけずにはおれなかた。「おじいちゃん、わたしよ! しっかりして!」と叫んだところ、もう意識がないはずの祖父の目から、すうっと涙が流れた。そしてその数分後、祖父は息を引き取った。祖父にとってわたくしと妹は外孫でありながら、彼にとって唯一の孫達であった。特に初孫のわたくしのことは、溺愛してくれた。父が厳しくわたくしを育てたので、その反動もあったのかもしれない。遊びに行けば必ずお小遣いをくれた。それをためてはレコードを買ったものだ。だから、わたくしのダメージは大きかった。無くなってからの数ヶ月後、周りの人に言われた。「ようやく元に戻ったね」と。祖父が亡くなって丁度10年。早いものである。それ以来、わたくしは自分の誕生日を迎える度に、涙に暮れたあの数日間を思い出す。おそらく倒れた直後、一番気にかけていた私のところにまで来てくれたのだろう。わたくしの運が微妙に強いのも、きっと祖父が護ってくれているからだと思っている。