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【2011年(辛卯) 9月7日(水曜日) 旧8月10日 乙丑 大安】
最近本屋へ行くと「反原発本」がやたらに目に付く。 「新刊・話題書」のコーナーに行くと、新しく出た小説などに混じって、こういう本が必ず何冊も並んでいる。ちょっと大きな本屋だと、わざわざ「原発コーナー」まであったりする。「原発コーナー」といってもあるのは「反原発」の本ばかりで、原発を支持する本はおろか、冷静に原発の効能や付帯するリスク、エネルギー問題全体を踏まえて今後どうあるべきかを評論したり解説している本は皆無である。少なくとも私は3.11以降お目にかかっていない。 まるで原発は今や日本中の不倶戴天の敵にされてしまったようである。 私はそれが気に入らない。 少し前に「日本の食料自給率は40%弱」という話をここに書いた。お米1キロを作るのに3.6トンの水、大豆1キロだと2.5トンの水が必要だ。食料全般に大量の水を必要としている。食料問題は水問題である。その食料の6割強を海外に仰いでいるのでは、日本では全世界的な環境の維持と外交に腐心しなければならない。そんなようなことを書いた。つまりはフード・セキュリティだ。 ところがエネルギー(今のところエネルギーを「電力」に置き換えてもいい)に至っては、わが国の自給率はたった4%程度で、所謂「主要国」の中では最低のランクである。そしてエネルギー資源輸入の大部分は中東地域に頼っている。これは、食料と並んで国民生存の要であるエネルギー・セキュリティ上の大問題だ。 日本はその稀少なエネルギー(発電量)の内約30%超を原子力発電、つまりは核分裂を利用する原発に依っているのだ。核分裂を起こす燃料であるウラン235は100%輸入に依存しているが、原発に必要な技術では日本は他の国を凌駕しており、極論すれば日本の技術が無ければウラン鉱石など、ただの石だ。そういう意味では原子力エネルギーは日本の「準国産エネルギー」だと云ってもいい。それに、他の石油や石炭、天然ガスなどの埋蔵資源を利用するのと異なり、二酸化炭素の廃出という観点からは、今のところ最も「クリーン」なエネルギーでもある。 しかし原発は、その中心部では非常な高温度の中を放射線が飛び交っている。結果として放射能廃棄物も出てくる。放射能は目に見えないだけに不気味である。特に日本人は先の戦争以来原子力には「本能的」な恐怖感を持っている。今回のようにそれが事故で漏れ出すと、不安が現実的なものとして、理屈を超えて迫ってくる。それに、漏れ出さなくても、発電の結果産生される放射性廃棄物を何処に捨てるのかという不安も生じる。半減期の長い廃棄物だと余計に不安になる。 ここでちょっと面白い話がある。 放射性廃棄物の処理について、各国間で話し合ったことがある。これを永い間(ものによっては数百年から十万年ほども長い期間、放射能を帯びたままの廃棄物もある。)安全に隔離するにはどうすべきか。 結論は「何もしないで普通に埋めておく。」だったそうだ。 つまり、危険なことを報せるために、何らかの標識を設けたり、モニュメントを建てたりすると、後世の「歴史好きな人」や、ひょっとしたら「考古学者」や、好奇心に溢れた子供までが発掘したりしてしまう。だから、「何もしないで普通に埋めておく。」のが一番安全なのだと。そうすれば、だれも気が付かない!(本当の話かどうかは知りません。) 現在の原発でも高速増殖炉との併用で、廃棄物の心配は大幅に減らすことが出来るし、長期的には核融合発電が実現できれば、核燃料の問題も核廃棄物の問題も「許容可能」なまでに解決することが出来るが、核融合発電の分野でも日本の技術は世界の中で群を抜いている。核融合発電だと燃料(重水素と三重水素だ)がわずか1グラムで、石油8トンを消費するのと同等のエネルギーを生み出すことが計算上出来るそうだ。 しかし、分裂であれ融合であれ、「核」が付くと不気味で面妖な印象が付いて回る。 一つにはあの「爆弾」をどうしても連想してしまうこと。そしてこの分野では、ウランとかプルトニウムとか、シーベルトとかベクレルとか、更には非常な高温度とか、非日常極まる言葉や概念の氾濫である。 核融合に至っては「イオン温度5億数千万度(!)以上の高温を実現して、プラズマを長時間閉じ込めて・・・」などということになるから、大学で物理か工学を専門に勉強した人以外には、面妖以外の何ものでもない。 だから、先日の事故とそれ以来のあれこれで、「校庭の土」、「海で獲れた魚」、「牛が食べた稲藁」、「お茶の葉っぱ」など、身の回りの分かり易いところから国の基準以上の放射能が検出された、ということになると、それまでの漠然とした不安感が突然具体的に、また現実的な脅威、恐怖と変わるのだ。 私は何も特に原発を擁護するものではない。こういう問題は情緒論ではなく、冷静な議論が必要だと思うのだ。 人間は、森林や草原を切り開いて農業を始めて以来、ずっと環境問題と自分たちの生存との間で折り合いをつける問題と直面し続けている。それがのっぴきならない問題として、広く認識されるようになったのは、せいぜい20世紀の後半に入ってからである。それまでの唯我独尊、発展至上の思想が変化し始めてからは未だ50年ほどしか経っていないのだ。そしてその期間でも「発展至上」の考えを払拭することが叶わなかった。今でもそうだ。 誰でも「自然は守らなければならない」、「環境を保護しなければならない」、「自然に優しく」などといえば(考えてみれば随分思い上がった言葉だと思う)、反対する人は居ない。 その一方で、縄文時代、いやそうは言わずとも、せめて弥生時代に戻っても良いと思う人は誰も居ない(と思う)。 有機農法や自然農法による野菜を好みながら、そういう野菜を作るのにどれほどの埋蔵エネルギーが費やされているかには無頓着だ。更には、自分たちの快適な生活を支えている電力の30%が原子力発電によって賄われていることは、敢えて普段忘れるようにしている。残りの70%だって大部分が埋蔵資源を燃やすことで賄われているのだ。太陽光発電や風力発電は、実現すればクリーンで「環境に優しい」が、実現するまでにそれを製造し、配備するために必要なエネルギーは何処から来るのだろうか? つまり、環境保護と人間の快適な生活は、本質的に両立しない。相互の「折り合い」をどう付けていくかということしかないのだ。 環境保護(私はこの「保護」という言葉がどうも引っかかるのだが)とは、「地球環境」と「生物環境」が両者とも今より急激に悪化しないように、出来得るならば少しは改善したいということだろう。 「人間の快適な生活」とは、先ず「せめて後十世代程度、つまり我々の玄孫(やしゃご)が玄孫を持てるようになる頃までは、人類が大きな不安も無く存続できること」と、その間は「暑すぎず凍えることも無く、ご飯もちゃんと食べられること。」 この両者を実現し維持するには、今我々はどうすれば良いのだろうか? ここで、反原発本に立ち返ると、私の印象では殆どが大衆の情緒におもねる程度のものしか無い。原発は単に技術の問題ではなく、政治や私企業、それに自治体の利害が様々に絡んでいる。其処には当然利権も大きく絡んでいるはずだ。 そういう「負の部分」を殊更に取り上げて、センセーショナルに仕立て上げ、「原発は悪だ」、「原発など要らない」と書き立てて印税を稼ごうなどというのは、出版ポピュリズムというにも値しない。 私は、単に原発のみでなく、将来的に可能な様々なエネルギー源、エネルギーの産生・分配方式を取り上げて、包括的に、且つ冷静に理論的に教えてくれる本。 文明の観点から人間のエネルギー生活に視点を開いてくれる本。 発電と蓄電、それに配電のあるべき形態と、それに係る政治や企業、そして更には我々民草に課せられる課題を提示してくれる本。 そういう本があって欲しいと、今切実に思っている。 最後になるが、つい先ごろ【「脱・石油社会」日本は逆襲する】という本を読んだ(清水典之、光文社ペーパーバックス)。中々面白かった。この本の中では、石油を中心とするエネルギー資源の枯渇を踏まえて、水素社会や電池社会の可能性が述べられている。これからの都市形態の有り様まで述べられている。総じて反原発ではなく、暫定的原発支持の基調で書かれているが、この本が出版されたのは2009年の1月だ。 彼の本が出た2年後に3.11が起こったのだが、清水さんには改めて現在の時点で、この本の続編か補遺版を書いて欲しいと思う。 私はかなり触発されたので、ご興味のある方にはお勧めしたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.09.07 15:38:17
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