カテゴリ:地域情報
8月9日(月)に、女川町文学碑海岸公園で
「第19回光太郎祭」がありました 光太郎祭の光太郎というのは、彫刻家、詩人として知られる高村光太郎のことです。 なぜ、光太郎が女川町に?と疑問を持たれる方もいますが、 それにはちゃんと理由があります。 簡単に言うと、高村光太郎が女川町に来て、女川の様子を雑誌や詩に詠んだことがありました。 その光太郎の来町を長く後世に伝えようということで、 平成3年に光太郎の詩を刻んだ文学碑が建てられ、年一回光太郎祭として 高村光太郎文学碑顕彰式を行っています。 (この辺は話すと長くなるので、ページ最後「光太郎祭について」をご覧下さい) 最初に群馬県立土屋文明記念文学館の佐藤浩美さんによる講演をいただきました。 高村光太郎の唯一無二の妻である智恵子の出会いから、死別した後の情景を描いた 智恵子抄の紹介・内容の解説などを話してくれました。 その他、紀行文・詩碑・詩の朗読がありました。 東京都足立区の夫婦から、地元の小学生まで幅広い年齢層の方々が、 お気に入りの光太郎の詩を朗読。 皆さん思い思いに朗読してました。 その他、アトラクションとして、ギター演奏やオペラ歌手の生歌、 女川コーラスの皆さんの合唱などがあり、女川町の夜を賑わわせていました。 ※光太郎祭について(女川町観光協会ホームページより) 彫刻家、詩人として知られる高村光太郎は、昭和6年8月、時事新報社の紀行文「三陸廻り」の仕事で女川町を訪れています。紀行文はスケッチ入りで、中央紙の「時事新報」夕刊に掲載され、活気あふれる当時の女川の姿がいきいきと描かれています。後に光太郎は女川の名を詠み込んだ詩「よしきり鮫」も発表しており、女川の印象が深かったことがうかがえます。 平成3年、その光太郎の来町を長く後世に伝える文学碑が、町営海岸駐車場北側の海岸公園に建立、そして、「三陸廻り」の中から抜粋した文を刻んだ巨岩を主碑にして、「よしきり鮫」「霧の中の決意」の光太郎自筆原稿を刻む二基が設置されています。 東部地方振興事務所 K.K お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.08.12 15:50:21
[地域情報] カテゴリの最新記事
|