|
カテゴリ:主婦ネタ
お仕事、やっともう1件済みました。 これで残りの分1件と、この前 打ち合わせしてきたものと、計2件になりました。 でも まだ残務整理とか客先CheckBack、変更とかがありますけどね。
てなこと思ってると、早速、前々回 済んだものの変更が入ってきました。 いーかげん開放してほすぃ・・・ ところで 世の中値上げラッシュの中、大手スーパーが値下げ競争を繰りひろげているところがあります。 そういえば、ガソリンもとうとう150円を割りました。 今日 帰りにいつものセルフスタンドが149円の値段になってました。 くっそー 昨日152円で入れたのに・・・(実際は2円引きですけど) ------------------------------------------------------------ 株価低迷などで消費マインドが冷え込む中、大手スーパー各社は、需要喚起のため本格的値下げ競争に突入した。 イオンは18日から、ジャスコなどグループ約2千店で食料品など約1000品目を平均2割程度値下げ。 期間は来年2月末までとする過去最大規模のセールだ。 イトーヨーカ堂も食品などを最大5割値下げするセールを実施した。(2008年10月18日 信濃毎日新聞) ------------------------------------------------------------ 物が売れない中、スーパーもとうとうしびれを切らして価格競争に入ったようです。 ガソリンもそうですが、安値が長続きしてくれるといいんですが・・・ 今はスーパーが台頭していますが、そのおかげで地元商店街はずいぶん寂れました。 私の街の駅前はなんとかもっているようですが、どこの街でもシャッターを下ろしたままのところがけっこうあります。 ひと昔前は「公設市場」なんてものがありました。 みなさん 知ってます? 「公設市場」 てなことで、本日のお題は 「お客様第一主義・公設市場」 尚、昨日のお題は 「さつま揚げ」←ご覧になってない方はこちらもどうぞ 今の会社は移転前(1年半ほど前)は茶屋町にありました。 大阪の地理に詳しくない方はわからないと思いますが、大阪駅のまだずっと北側、淀川区に近いほうです。 営業などで電車に乗る場合、大阪駅まで歩くことが多いのですが(約15分)、網島神社とか、お初天神などを通っていくことがよくありました。 その お初天神近くに「曽根崎市場」があります。 そこには「品質最高」、「適正価格」、「正しいはかり」と書かれた三つの宣伝文句の看板があります。 そう かつて「公設市場」の面影をとどめる看板です。 今 1040平方メートルの建物に39区画がありますが、鮮魚、青物、精肉、米、乾物、酒類と16店しか営業していません。 大正時代の1925年、大阪市の公設市場として開業しました。 その当初からの対面販売が続いていますが、客の姿はまばら。 昔は「はかりは正確か、値が高すぎないか」と 市職員がよく点検にきたそうです。 私もちいさいとき、近くの公設市場に母に連れられて、よく行ったことがあります。 その頃ですね。 乾物屋のハムより肉屋のハムがおいしい ということを発見したのは。 まあ 当たり前のことなんですが、当時は乾物屋さんのハムが食卓にのるのが普通でした。 もちろんお値段は全然違います。 公設市場設置の建議が大阪市議会に提案されたのは、1918年2月のこと。 第1次世界大戦(1914~1918年)に伴う物資不足や価格上昇の解決策として、東京や大阪市は欧米の公設市場を研究していました。 その動向を知ったか、市議4人が東京に先んじて動いた といわれます。 市も即応して、2か月後の4月15日、谷町、境川、天王寺、福島にバラックを建て、「日用品供給場」を開きました。 市が整備した市場を商人に提供し、安定供給を図る仕組み。 当時の内務省の記録によると、初の公設市場でした。 「天下の台所」とあって、大阪は江戸時代から天満の青物市や堂島の米市が栄えたが、主役は問屋や仲買人。 大正に入っても多くの家庭は、家々を回る「御用聞き」から掛け売りで物品を買っていて、価格は言い値、量もごまかされるケースがよくあったらしい。 「あしき商慣行も物価高騰の要因」 そう考えた市は「正札(定価)表示」と「現金販売」を公設市場で義務づけ、職員に監視させた。 売値の上限を設定し、計量にも神経をとがらせた。 結果として野菜やみそ、昆布が一気に値下がりし、市民が殺到しました。 行政が商慣行を変え、主婦を買い物に引っ張り出した といわれました。 「流通革命」を市が先導したのでした。 1918年の夏、富山県の漁村を発端にした「米騒動」が全国に波及したが、大阪市の公設市場は白米を他よりも3割安く販売し、評価を決定づけた とされます。 政府が普及を指導し、1930年には、40道府県の計328か所に広がった、という。 大阪が全国のモデルとなり得たのはなぜか? 当時の大阪は国に頼らずとも、市民を守る政策を進める自負とサービス精神があった という。 当時の市の「公設市場サーヴィス讀本」(1937年)を見ると、昭和初期にして「お客様第一主義」を掲げ、商人の服装や言葉遣いまで指導していたのです。 やがて時代は転換し、米国発祥のセルフ販売によるスーパーが大阪から台頭していく。 1955年の「ハトヤ(現・マイカル)」、57年の「ダイエー薬局・主婦の店(現・ダイエー)」と・・・ そして、公設市場はスーパーに取って代わられた。 1942年、最多の55か所を数えた大阪市の市場も徐々に減り、80年代後半からスーパーへの衣替えも増え、「役割を終えた」と市が制度を撤廃したのは2003年。 他の政令市も傾向は同様で、「地域に根ざしているから」という名古屋や神戸で続くくらいです。 曽根崎市場から、北東500mのスーパー「ナベルホンジョウ」があります。 旧「本庄公設市場」 14年前の改装時、約30店中8店が「対面販売を続けたい」と残した生鮮市場の一角があります。 どの店も食の知識が深く、若い母親の料理の相談に乗る店主もいる という。 食料品店を営む山口さんは、約40年前のダイエー1号店の視察を忘れられない という。 「客に商品を運ばせるなんて、失礼な商売しはるなぁ」と思ったそうだ。 曽根崎も本庄も、建物は今も市有地。 店側は賃料を払って、客とのふれ合いを頑固に守る。 尚、市場の歴史は古く、7世紀後半には軽市や中市などが奈良盆地の交通の要所に開かれ、物品が売買されていたとされる。 平安京でも「東西市」が置かれ、鎌倉時代に入ると定期市も始まった。 商人は同業者組合の「座」を設けて営業を独占したが、織田信長や豊臣秀吉が「楽市・楽座」で商取引の自由化を図り、江戸時代以降、各地に青物市や魚市が生まれた。 大坂では16世紀後半以降、天満、堂島、雑喉場(ざこば)、木津、難波などに広がり、全国の相場を決める とされました。 食品偽装が相次ぎ、食の信頼が揺らぐ世の中。 「お客様第一主義」が息づく公設市場の伝統が、見直されていいのかも知れない。 遅くなったが、先日 ちーさんから頂いた「北京セット」 なぜかポカリスエット? パラリンピックのお土産はメダルがいいですねぇ~ などと話してたら、本当に銀メダルをお持ち帰りになった。 そこそこやるとは思ってましたが・・・ 何にしろヘンな邪心がないのが勝因ですね。 ホントに楽しんでやっておられる。 ヘンな邪心を持ってる人はダメです。 改めて「銀メダル おめでとー!」 <オマケ> シリーズ化してしまった懐メロ 「シェリーに口づけ/ミッシェル・ポルナレフ」、「Pretty Little Baby(可愛いベイビー)/Connie Francis」、「RAINDROPS KEEP FALLIN' ON MY HEAD(雨に濡れても)/Kumiko」 なぜか大学からアクセスの多い別ブログ まったく更新してませんが・・・ ●別ブログ9/10の新着は「北野・異人館街」 前回は「A. KY」 こちらも見てね お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年10月20日 22時21分51秒
|
|