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カテゴリ:アウトドア
長女たちは明日は東京で用事があるとかで、今日 お昼すぎに帰っていきました。 さきほどがあって、帰宅したそうです。 やはり 3連休で高速道路は混んでいて、渋滞に1時間半ほど巻き込まれた とか。
2年前は8月、去年は9月と、ここ数年、木曽で待ち合わせするのが恒例になってしまったみたいです。 年1回ですから、まるで七夕みたい。 ま そんないいものではないですが・・・ まあ 八王子に引っ越して近くなったから、以前よりは来るのが楽になったようです。 反対にこちらは年々 つらくなってますけど さて、この前 「肉食はやはり良くない」で、介護従事者の待遇改善の話題をお伝えしましたが、介護士に限らず、福祉関係の方は6割以上が「条件があえば復職したい」と考えていることがわかりました。 ------------------------------------------------------------ 県内の福祉施設を2年以内に離職し、福祉以外の仕事をしている人や仕事に就いていない人の約6割が復職を希望していることが27日、県社会福祉協議会のアンケートで分かった。 希望者のうち、復職の条件として労働時間や夜勤日数など「労働条件」の改善を求める人が28.7%に上り、「給与条件」(23.0%)と合わせて過半数を占めた。 アンケートは、福祉施設での人材不足深刻化を受け、今年9月に実施。 県内の604施設を通じて調査票を離職者に郵送し、1110人から回答を得た。(20081018 信濃毎日新聞) ------------------------------------------------------------ それほど介護従事者、福祉従事者の熱意は熱いのですが、やはり自身の生活があります。 介護従事者などは、以前の制度では生活ができないことも多いとか。 これは介護従事者、福祉従事者だけではなく、医療従事者の看護師などでもよく聞くことです。 彼ら、彼女らは福祉精神を持っています。 [人のために働きたい] と・・・ 自分だけのためにしか動かない、屁理屈こね回す人間の多い世の中、こういう人たちの待遇改善は必要不可欠と思います。 「屁理屈ばっかり言ってないで、ちったぁ人のために動けよ!」 ところで、ここ木曽では星がきれいに見えます。 空気が澄んでますし、標高も高い。 それに、都会のようにネオンなどの灯りもありませんから、ジャマな光もありません。 ということで、本日のお題は 「夜空をあおいで」 尚、昨日はズボラしたので、一昨日のお題は 「丸顔は人なつっこい」 ご覧になってない方はこちらもどうぞ 都会ではなかなか星をきれいに見ることができません。 しかし プラネタリウムに行けば、本物よりも鮮明な星を見ることができます。 しかも説明付きで 直径26.5メートル。 世界最大級の半球状スクリーンを見上げると、かすかに差し込む光の粒が少しずつ暗闇の中に広がる。 幾筋も白く流れる光の帯、天の川。 大阪市立科学館でプラネタリウムを見ると、昔 友達らと楽しんだ少年時代の記憶がよみがえり、銀河に思いをはせて、時を忘れる。(大阪では小学生は必ず学校から社会見学でプラネタリウムに行きました) 天体の位置と運動を細密に再現し、「天象儀」の名もあるプラネタリウム。 国内へ初めて導入(1937年)したのが大阪市でした。 商工都市として発展し、「大大阪」と呼ばれた昭和初期のこと。 漫画家の手塚治虫や、作家の織田作之助も魅せられたらしい。 そのひとりに、SF作家の小松左京氏がいる。 「あんなファンタスティックなものはなかった。 科学ってすごいな と」 人々を宇宙に誘う光学装置はなぜ海を渡ったか。 しかし 草創期をたどると戦争の影がつきまとう。 1923年、星の像をスクリーンに映し出す投影型の開発に世界で初めて成功したのは、ドイツのメーカー「カールツァイス社」でした。 電球の光で4500個の恒星や惑星を投影できたという。 外国雑誌で知り、国内に紹介したのが天文学者の山本一清氏。 主宰する天文同好会の会誌『天界』に1927年9月号に、こう記した。 諸所の大都市に器械(プラネタリウム)装置さるべく目下交渉中 当時の新聞を見ると、確かに大阪電気軌道(現・近鉄)や阪神電鉄が購入を検討し、阪急電鉄も関心を寄せたが、大阪市が振り切ったのだそう。 四つ橋に建設する電気科学館の中核施設として1935年、ツァイス社製「ツァイス2型」の購入予算案を議会に提案したのでした。 「市はおそらく山本氏の影響も受けて、最新電気技術の粋を集めたプラネタリウムの存在を知り、広告塔に使おうとしたのではないか」と 日本プラネタリウム協議会理事長の加藤賢一さんが語る。 電気が家庭に普及し始めた時代。 市はすでに電力会社を買収して電気局を設置し、電気供給事業を手がけていました。 需要は年々高まり、民間との販売競争も激化していく。 販路拡大の切り札が電気科学館だったというわけ。 建設の立役者が、電気局長だった木津谷栄三郎氏。 欧米を視察し、科学の裾野を広げる必要性も感じていたらしい。 購入費46万8000円。(今の3億円以上) 「過度の支出」という議会の反発は必至とみて、いち早く手を打った。 そこで着目したのが「軍事利用」 欧州で、飛行士や航海士に天文観測技術を教える施設としても使われていたことから、海軍省に陳情して「軍事上有用」と訴え、支援を得た という。 賢い! 陸軍第4師団(司令部・大阪市)も、市への実現要望に動き出し、議会も折れて予算案を承認したのが、その年6月のことでした。 2年後、直径18メートルのドーム室にツァイス2型を据えつけた電気科学館が完成しました。 街がわいた初上映から4か月後の七夕の夜、中国で盧溝橋事件が起き、時代は日中戦争へと暗転していく。 来場者は1942年度、16万3000人を記録したが戦局の悪化につれて減り、天体観測を学ぶ軍派遣の兵士らの姿が増えたそう。 [電気科学館20年史]は「館員の指導も益々強要さ・・・」と、戦時中の空気を伝えている。 第2次大戦の1945年3月13日深夜、B29の大編隊が飛来し、市街地が焦土と化した第1次大阪大空襲やその後の空襲にも被災にあわず健在だった。 打ちひしがれた人々を慰める思いもあったのか、終戦の翌1946年、市は中断していた上映を再開しました。 以来 街に根づいたが昭和が終わった1989年に閉館し、跡地にはオフィスビルが建ちます。 大大阪の時代はすでに遠く、経済の地盤沈下が続くが、プラネタリウムは今も輝きを放つ。 役目を終えたツァイス2型も展示されている市立科学館。 後継設備は、映る星の数こそ9000個と変わらないが、大気の状態による瞬きの違いも表せる特注の国産品。 「シリウスなら青白く、火星なら赤っぽく光って本物の夜空のよう。 空襲におびえることなく楽しめる今は、本当に幸せです」と、昔 大阪大空襲にあった人が言う。 11月16日未明におうし座のアルデバランが月に隠される。 11月17日~18日頃、しし座流星群がピークになる。 今夜は平和をかみしめて、昔 覚えたの星座を探そうかな。 あなたもタマには「夜空をあおいで」みませんか? つまらん競争や争いがイヤになりますよ。 「夜空をあおいで」←クリック 再び登場 「昴/谷村新司」 尚、星の動きを表す装置は古代ギリシャで存在していたとされます。 中世に入り、惑星運行を歯車で示す「オーラリー」が登場しました。 18世紀オランダの天文家アイゼ・アイジンガは太陽系の惑星の軌道を再現する機械を製作し、「アイジンガのプラネタリウム」と呼ばれました。 「惑星を見る所」を意味するプラネタリウムの名が確認できる最古の例。 世界初の投影型は「ツァイス1型」で、映る星空の範囲が限られていましたが、1926年に開発された「2型」は緯度の変化に対応し、地球上のあらゆる場所の星空を映し出せるようになりました。 国内では大阪に次いで1938年、東京にも設置されて広がり、57年に千代田光学精工(現コニカミノルタ)が国産第1号を製造しました。 現在は全国で300基を数えるプラネタリウムが設置されています。 なぜか大学からアクセスの多い別ブログ やっと更新しました。 ●別ブログ10/26の新着は「医療費、介護費用」 前回は「北野・異人館街」 こちらも見てね お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年11月02日 21時13分43秒
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