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カテゴリ:イスタンブール日々新たなり
【8月27日・木曜日】 ミー・チームの3人の友人や、24日の晩に出会った七夕・ユウコさんからのお土産を並べて、写真を撮ろうとしたら、タマオが早速やってきて、海産物の入っていた段ボールの箱の上にご機嫌で座ってしまった。 この箱には、何が書いてあったかと言うと、あとで撮り直しした写真を見て頂きたい。 25日と26日に貰ったお土産。ビールは美由紀さん、ハマムのセットは美保子さん、 手前のエブルのスカーフとノートは美樹さん、右のマグロの煮物類はユウコさんから。 ジュース類はもう飲んで瓶がないが、美保子さんと美樹さんが持参してくれたもの。 日本有数の漁港、焼津の食品会社の製品、マグロのいろいろな煮物です。 海産物は大好物なので、串本に行った時には持てるのか、大丈夫か、というほど買いこんで、その後いよいよトルコに帰る時は沢山の頂き物が加わって、1ヵ月の食費くらいの超過料金を払うことになったが、背に腹は替えられずそれを払って持ち帰ってきた。 さて、私は29日早朝に、日本から例年のように今年2度目のトルコ旅行に来るかゆすさんこと、冨岡伊久子さんをお迎えすることになる。 マルディン国際凧揚げ大会の日本の凧師のお世話をする仕事が流れてしまったので、不幸中の幸いで伊久子さんのお相手が少し出来ることになった。 伊久子さんは今回、昨年私が行ってきたので、ディヴリーの素晴らしい世界遺産や、シワスの街の中心部に沢山ある、セルチュク(ルーム・セルジュク)時代のメドレセ(神学校)やモスクの、石の門などに残された見事な彫刻を見て来たいのだそうだ。 伊久子さんはもう4~5年くらい前からトルコ語を習っており、奥ゆかしい人なので習ってもあまり喋らないため、この機会にせっかくだからトルコ語を生かして旅が出来るように、30日のディヴリーの見学には、地元の写真家ユスフ・ギュルダルさんに案内を乞い、31日のシワスでは何と、県のナンバーツーである、シワス文化観光局長カディルさんが自ら伊久子さんのエスコートをして、セルチュク時代の沢山の建築を案内してくれることになった。 カディルさんとは昨年、日本での世界旅行博に参加するため、シワス県がシティ・ガイドの日本語版を作るのに、友人のアマスィヤ県の文化観光局長アフメット・カヤさんの紹介で私にオファーをしてくれたので、その縁で私もシワスに招待して貰ったのだった。 もともと文学博士で、アラビア書道の名手でもあるカディルさんに、伊久子さんがアラビア習字を習っていることを告げた。Ikukoさんが、カディル先生のお眼鏡にかなう弟子になれるでしょうか、とも書いた。 ちょうどその直後に、伊久子さん自身も、殆ど間違いのない、なかなかの文章で、自己紹介のトルコ語の挨拶メールを先方に送ったため、カディルさんはとても喜んで、彼女は自分がご案内しますよ、と私達に約束してくれたのだった。 私はこうして伊久子さんに、専門家の方々の協力を得て、安全かつ実のあるシワス旅行が待っていることを心から喜んでいる。自分に出来ることは少しでも協力したいし、人を紹介することによって、そこにまた新しい交流が始まれば、それはそれで大きく発展してほしいと思う。 これからの私は、今一度メヴラーナと出会った原点に帰り、11世紀末から13世紀にかけて、戦争に次ぐ戦争の果てにアナドル(アナトリア)を平定、コンヤを首都としたセルチュク一族の大王がそこに王朝を開き、第7代スルタンのアラーエッディン・ケイクバド1世の治世に、最強の帝国となった頃を見据えなくてはならない。 そのケイクバド1世の治世に、蒙古の襲来を恐れて現在のアフガニスタンの北部の町ベルヒから10年余りかけて逃れてきたメヴラーナ父子を、ケイクバド1世が丁重に迎え、宮殿のバラの園を道場として寄贈した頃も、セルチュク王朝の大王は常に遠征を繰り返していたはず。 そしてこうした戦争に関する資料は軍事博物館にすべてあるのだった。コンヤのメヴラーナ研究も軍事博物館に繋がる道だったわけで、自分のライフワークがなんとも壮大で踏破出来る山なのかどうか、不安に思えてきた。 ミー・チームの友人達にも、「もう無駄に使える時間はないと思って、ご自分の仕事に専念して下さいね」と、みっちり言われたことでもあり、私は、そう、これからの私は、昨日までの私と、少しずつでも変わって行かなくては意味がない、と今しみじみと思っている。 アントニーナ・アウグスタ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015年08月28日 03時46分26秒
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