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カテゴリ:日本を思う/日本にいる人々を思う
【11月3日・火曜日】 V子が生まれた次の日は、文化の日で、当時住んでいた家の隣家の奥さんが私のお世話になった産科医院の近くの別な産院で男の子を出産した。 坊やの愛称は「あっくん」、上に4歳と2歳のお姉ちゃんがいて、ずっと子育てに追われていた奥さんは、疲労気味で母乳の出が思わしくなく、私の方はV子だけでは飲みきれないほどで、絞って捨てるのでは痛い上にもったいない。 2組の母子が1週間ほどで退院した後、奥さんからそれを聞いた私は、時間を見計らって毎日何度か隣家に出張して、V子とあっくんにたっぷりと飲ませ、2人を並べて寝かしつけた。寝ている間に手先の器用な奥さんから鉤針編みなどを教わり、V子用のチョッキやズボンを編んだりしたものだ。 私の姑は国家公務員として長年勤めていたので、あと2~3年で定年、年金を貰う資格が出来ると言う。まだ4年ちょっとしか勤めていない地方公務員の私が、産休の切れた後退職し家で育児と和文タイプの内職を始めたのだった。 4ヵ月くらいそんな日々が続いた後、隣の奥さんの乳の出も回復し、春が来て陽気がよくなると、成長著しいV子が、あっくんとお姉ちゃん達のいる隣家に連れて行けばキャッキャと喜ぶので、ほとんど毎日のように隣の家で過ごしたものだった。 隣の奥さんも働き者で、元美容師だったので、育児の傍ら近所の奥さんやおばあちゃん達のパーマやカットなどを引き受けて家計を助け、美容院開業のために貯金していた。 翌年の5月頃、私が盲腸を発症、緊急手術しなければならなくなった。下半身麻酔の注射をされて炎症部分を切除し、1週間は入院せざるを得ない状況になり、病院には実家の母が泊まり込みで看病してくれることになった。 そして姑が勤めを休み、V子を抱いて隣の家に貰い乳に行くことになり、奥さんは夜も自分の隣に私の姑とV子の寝る布団を敷いてくれて、添い寝で面倒を見てくれたのだった。 私の退院後、それを機に徐々にV子もあっくんも離乳食を始め、まだ立ち上がることは出来なかったが、2人とも這い這いで追いかけっこをしていた頃に撮影した写真がある。 あっくんの家で。右のまるまっちい子がV子。生後8カ月くらいの頃。 こうしてあっくんとV子は乳兄弟となり、私もその後息子を授かり、娘が5歳、息子が3歳の時、姑が無事に定年退職を果たし、家で子供達を見てくれることになった。 私は30歳の誕生日を機に、店を借りて念願のタイプ教室と印書・印刷業を始めることにし、あっくんのお母さんもやがて美容院を開き、写真のこのふたりは小学校も中学校も一緒、わが家が転居したのちも、長らくお付き合いは続いていた。 いまでもV子はたまにあっくんのお母さんの店に顔を出すことがあるようだ。 なお、このあっくんは、私が3年半前にイスタンブールで知り合った青年実業家アッ君(子犬のクパちゃんの飼い主)とは別の人です。 アントニーナ・アウグスタ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015年11月13日 19時16分28秒
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