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カテゴリ:日本を思う/日本にいる人々を思う
【8月12日・金曜日】 昨日の夕方、隣のジハンギル地区に住むオーガニック野菜生産者、中野千香子さん(旧ブログでは千沙子さん)から電話を貰い、今年のまくわうりが出来ましたので味を見て下さい、とのこと。私も大好きなので勿論、頂くことにした。 おととし、ほんの少し試験的に作ったというまくわうりがよく出来て、私も「味を見て下さい」と頂いたのが大変美味しかったので、「これは来年、たくさん欲しくなりますね」と楽しみにしていたのだった。 ところが昨年春には地主さんの都合で畑の土地を返却しなければならなくなり、新たに借り上げた土地に移転したりで、夏野菜の種まきや植え付けに間に合わなかったため、まくわうりは出来なかった。 しかし、夫妻はとうとう今年、以前の畑から程遠からぬところに畑を借り、去年余り作れなかった夏野菜が出来始めたのだった。その上、今年から枝豆も作付したので、今晩から畑に行って明日の朝収穫したものをジハンギルに持ち帰り、13日の土曜日に届けてくれると言う。それはすごい! 千香子さんの野菜と、私の作ったなにがしかの煮物やその他で、以前よく「物々交換」をしたものだったが、では久々に私の方も何か作ってまくわうりと交換してはどうか。そこで夕べ遅く、私は餃子の中味を拵え、夫妻の夕飯にでも食べて貰おうと4食分を半冷凍にしておいた。 黄金色のまくわうりはどことなく豊かさを感じさせ、きっと昔から人々に愛好されたのだろう。 私が夜食べたのも一旦木綿餃子(世間では棒餃子)。 まくわうりは、日本古来のメロンで、その発祥は弥生時代にまで遡るのだそうだ。私も子供の頃、良一伯父さん(母の兄)の連れ合い、ゆき伯母さんの実家がすいか生産農家だったので、夏になると毎週のように新しいすいかが届けられ、筋模様の入った当時のスタンダードな瓜と一緒にこの小粒ながら甘いまくわうりなども豊富に味わって育ったのである。 その親戚のすいか畑の中央付近に番小屋があり、家族の男達が夜半に出没するスイカ泥棒を撃退するために、長い竹竿などをそばに置いて寝ずの番をする。私もおかっぱ頭の子供の頃、大好きなきい叔父さん(母の弟)の自転車に載せて貰い、その親戚に泊まりがけですいか番の手伝いに行き、きい叔父さんやゆき伯母さんの弟達と番小屋に泊まったものだった。 終戦後(第二次世界大戦)、まだ3~4年過ぎたばかりの日本は、どこの人々もみな一様に貧しくて、こうした畑の作物を出荷できる農家はまずまず豊かな方だったのである。すいか一つ買えない家族も沢山あったのだろう。ゆき伯母さんの実家の中沢家の人々もけっこう情に厚くて、捕まえたすいか泥棒を警察に突き出す、などということもせず、まだ子供だったので、説得して一つ持たせて帰した、などと言う話をしていたのを聞いたことがある。 まくわうりのさくさくと柔らかな切り身を食べると、子供時代の懐かしい光景が舌にしみる甘みと共に、網膜によみがえってくるのだった。 異国の地で頑張って、懐かしいものを栽培してくれている中野夫妻に感謝しながら、次なる枝豆の収穫も楽しみな私である。 アントニーナ・アウグスタ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016年08月25日 12時39分22秒
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