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カテゴリ:イスタンブールで人と会う
【9月13日・火曜日】 昨日のクルバン・バイラム初日には、夕方チャイムが鳴ってレベントさんが皿の上にはみ出すほどに大きなあばら骨を載せて、「バイラム、おめでとう。少しばかりですが、私どもの習慣にお付き合いください」と言いながら届けてくれたのだった。 「ありがとうございます。アッラー・シズデン・ラーズ・オルスン、アッラー・カブル・エトゥシン」と私もこうした時のイスラーム教の礼の言葉を述べながら有難く頂いた。 ほふったばかりの肉はすぐ食べると固いので、幾日か冷蔵庫で寝かせて置き、あとで調理しようと決めた。クルバン(犠牲)となってくれた動物達の肉は、いろいろ工夫して余さず食べなければ動物にも分けてくれた人にも申し訳ない。 さて、今日は近所に住む日本語教師の先生から、私が初夏の頃生徒として紹介した青年が、急に転勤命令があり9月下旬には遠隔地に行ってしまうため、バイラムとお別れのご挨拶に来るとのことで、数日前から私にも声をかけていただいたので家を出た。 この青年シェレフさんは若く優秀な海軍の軍人さんで、既に曹長の地位についていた。私のメフテル軍楽隊の友人で、チェヴゲン(コーラス隊員)として海軍から派遣されている、ハリル曹長の紹介で知り合った人である。 シェレフさんは2005年にも串本に行く機会があって、それ以来大の日本びいき。数年前から自習独習から始めて本格的に日本語の会話と読み書きもマスターするために、高度な勉強を進めたいと思っていたそうで、彼が書いたものを見せて貰ったら、相当なレベルに達しているのだった。 私は迷いなくこの先生を紹介し、彼から一度中間報告があって、お陰さまで素晴らしい先生と出会えました、イスタンブールにあと数年いるうちに、自分の能力を高めて頂ける先生にご紹介下さって、加瀬ハヌムにも本当に感謝しています、と言うのだった。 ところが彼が先生とのプライベート・レッスンを始めて2ヵ月ばかり過ぎた頃、7月15日の夜、クーデター計画未遂事件が起こり、トルコの国情が一変してしまったため、シェレフさんも予想だにしなかった遠方へのタイン(異動命令)が出て、イスタンブールで先生の授業が受けられなくなってしまったのだった。 良い先生とめぐり合い、ますます向学心に火が点いて、難しい日本語をマスターする、という長年の夢が叶うかもしれないと、喜んだ矢先にこうしたことになった彼の無念さは、計り知れないものがある。 2歳半の可愛い盛りのお嬢ちゃんが眠ってしまった後、小学校の先生をしているという奥さんともども、礼儀正しい夫妻としばらく話がはずんだが、奥さんは学校での任務があるので同行は出来ず、幼い子を抱えてイスタンブールに1人残らなければならないことを嘆いていた。 先生は奥さんに「おひとりで手に負えないことがあったら、どうかいつでもいらしてくださいね。私達が力になれることはお手伝いしますから」と優しく慰めた。 シェレフさんは、私にもお土産を別に用意してくれて、舵の形をしたトルコ海軍の日本との友好のキーホルダー、串本の125周年慰霊祭の時の海軍がゲストに贈呈した記念の帽子、そして、以前ケニヤに行った時の土産で、自身もとても気に入っていると言う、サファリの動物の絵が付いた、珍しい石をくりぬいた小皿のセットなどを頂いた。 帽子とキーホルダーはエルトゥールル号のいい記念になります。そしてケニヤの石のお皿が素敵。 やがて、彼らが名残惜しげに別れを告げて帰って行ったあと、私はふと一抹の寂しさを感じて、先生が改めてコーヒーを入れてくれたので、そのまま座りこんで、20年も前の古い古いイスタンブールの話で盛り上がり、時の経つのも忘れてしまった。 お見事なカップ&ソーサーで、フィルターコーヒーをいただきました。 ああ、元カプジュの騒ぎで鬱陶しいバイラムで終わってしまうのか、と思ったものの、こうして爽やかな人々との出会いが私を灰色のトーンから救い出してくれた。 あのきりりとした海の青年が、しばらくの間、奥さんや愛娘と離れて暮らさなくてはならないのが気の毒だが、早くまた一緒に暮らせるようになることを、先生と2人で祈りましょう、と約束して暇乞いをしたのだった。 アントニーナ・アウグスタ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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